1141│虎女の鏡石

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ソース場所:南アルプス市芦安安通

●ソース元 :・ 現地説明板     
       ・ 南アルプス市HP 市指定文化財     
       ・ その他 富士宮市HPhttp://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/citizen/llti2b0000002q4i.html
         大磯町観光情報サイトhttp://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/citizen/llti2b0000002q4i.html
         土橋里木(昭和51年)「甲州の伝説」甲州伝説散歩  ㈱角川書店 などを参考に書かせていただきました。
●画像撮影  : 2014年07月24日
●データ公開 : 2016年11月18日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

[概要]

虎女の鏡石

日本三大仇討の一つといわれる「曽我兄弟の仇討」は1192年の出来事でした。これは「吾妻鏡」に詳細が残されています。また、巻狩りに集まった東国武士たちによって語り継がれ、「曽我物語」としてまとめられました。これをまとめたのは、箱根権現や伊豆山権現の僧達だったのではと云われています。曽我兄弟の兄 曽我十郎と恋人同士であった虎御前を初めとする巫女やごぜなどによっても語り継がれ、やがて、民衆に広まっていきました。年若い兄弟の仇討だった事、美しい恋人との話、平氏方だった伊東祐親や、祐親にひどい目に合わされ暗殺事件を起こしながらも、時代の波に上手く乗って源氏方についた工藤祐経との間にある源平の栄枯盛衰感情。曽我兄弟に寄り添う伊豆の僧達。源頼朝と北条氏との関係。陰謀説。 時代の変わり目の悲劇は、文学・芸能分野で取り上げられ、また縁の土地土地で生き生きとしたお話となって今に伝わっています。

源頼朝が伊豆に流刑された時から始まる因縁の話で、兄弟の祖父 伊東祐親 と 祐親が後見人となった 工藤祐経 のいざこざが元になっている。上洛している間に後見人である祐親に荘園の実権を握られ、妻まで勝手に離縁された祐経が、祐親とその子 河津祐泰 の暗殺を企て、河津祐泰は命を落とした。祐泰には二人の子供がいたが、祐泰の死後、母の再婚により曽我姓になった。兄弟は父の仇討を心に決めて育った。
曽我十郎は美しい虎御前とめぐり合う。この虎御前が 「芦安村安通の出身で大磯の長者の養女となった」とこの地では言い伝えられている。
1192年、頼朝が富士山麓で大規模な巻狩りを催した。この最終日、曽我兄弟は祐経の寝所に押し入り、本懐を遂げました。兄の十郎は仁田忠常に討たれ、弟の五郎は御所五郎丸(参照 0372 御所五郎丸の墓-南アルプス市)によって取り押さえられ、斬首された。
虎御前は十郎の没後、尼となって芦安の地に戻り、ここで兄弟の菩提のため尽くしたと伝えられ、彼女が鏡を立てて化粧した石「虎女の鏡石」がある。この地は、芦安村安通の伊豆神社跡である。伊豆神社は曽我十郎と大磯の虎御前の霊を配祀していた。(安通は山陰の集落だったため、集団移転し部落としては残っていない)

県内には、身重の虎御前が曽我十郎の死後、身延に隠れ住んだという言い伝えも残っている。(参照 1165  大磯小磯)

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伝曽我十郎木像・伝虎御前木像
所在地/ 南アルプス市芦安芦倉960-11142
所有者、管理者/ 諏訪神社
指定年月日/ 昭和59年11月26日
備考/伝曽我十郎木像 高さ  57センチメートル
伝虎御前木像 高さ 48センチメートル
解説
以前は伊豆神社のご神体であったが、荒廃したので大正十年諏訪神社に遷祀された。これまで、曽我兄弟木造とされてきたが、平成十二年に行った鑑定結果と、合併前の芦安村文化財審議会及び諏訪神社の氏子により、この木造が曽我十郎と虎御前であるとの見解が出され、名称変更されることとなった。
曽我十郎と恋人同士であった芦安出身の虎御前を祀った木像であると思われる。

南アルプス市HP 市指定文化財 より
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虎御前の鏡立石

虎御前と鏡立て石の伝説(下安通 伊豆神社境外 年不詳 高さ120センチ 自然石)

今から八百年も前のことである。曽我兄弟の父、河津三郎祐泰は、伊豆の山中で狩猟の帰り道、工藤祐経に弓で打たれ殺された。祐泰の遺児 十郎が五歳、弟 五郎が三歳のときであった。この兄弟の兄十郎の愛人であった虎御前(虎女)は、芦安村安通の生まれで、少女の頃大磯の富豪の家の養女となっていたが、建久二年(1193年)ごろ、不思議な縁で十郎と結ばれた絶世の美人であった。曽我十郎・五郎兄弟は、いつか父の仇祐経を討ちたいと秘策をめぐらせていた。
建久四年(1193年)五月、源頼朝は家臣を引き連れ、富士のすそ野で大巻狩りを開いた。その夜の天地は大荒れに荒れた。十郎・五郎兄弟は、しの突く雨の中、夜陰にまぎれて祐経の陣所を襲い、見事祐経の首を討ち取り、父の無念を晴らした。しかし十郎は、任田四郎忠常に討たれ、五郎も御所五郎丸らに取り押さえられた。この仇討の報を知った虎女の悲しみは限りなく、緑の黒髪を落とし、尼僧となって仏門に入り、生涯を兄弟の菩提のために尽くすことを覚悟し、信濃善光寺を目指す途中、生まれ故郷の安通村に歩みを止めた。すでに兄弟の仇討の報は故郷にも知らされ、親戚・縁者・村人たちは、うち沈む虎女を心からなぐさめ歓待した。虎女は村人たちの深い情を感じ、思いのほか長逗留の日々を過ごすことになった。いつしか虎女は、懐かしい鏡立て石の前で身づくろいすることが日課のようになっていた。しかしいつまでも村人の好意に甘えてはおれず、虎女は意を決し、善光寺に旅立ち兄弟供養のため仏道の修行に励んだ。
虎女はのち、大磯の高麗寺に入山、生涯を十郎・五郎の菩提のために尽くし、七十余歳でこの地で死んだという。鏡立て石は、虎御前が化粧のとき鏡を立てた石と伝えられている。

現地説明板より

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