1519│中丸の城あと

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ソース場所:北杜市長坂町大八田字城・北杜市長坂町中丸城山上 ほか

●ソース元 :・ 長坂町教育委員会(平成12年)「長坂のむかし話」 長坂町役場
●画像撮影  : 201年月日
●データ公開 : 2018年06月27日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

 

[概要]

中丸の城あと    (柿平・中丸)

天白城祉
柿平区内小尾平の東北端深沢川に接する岩壁上の台地に、天白城があったと伝えられている。その場所は特定されてはいないいわば幻の城ともいえるが、現在の柿平共同墓地のあたりだという。また、深沢の谷を越えた鳥久保地内黒花の「古宮の岡」の真向かいに見えるあたりが天白城だという人もいる。地域の古老は現在でもこのあたりを「お天白」とか、「お天白さん」と呼んでいる。
武田の臣小尾能登守なる人物が天正年間小尾の府(須玉町増富)の口留番所からこの地により築城したとの言い伝えである。小尾氏は増富(須玉町)の金鉱採掘監督をしていた武田家の重臣であったといわれている。
深沢城祉
中丸区の東南方に「城山上」という地名がある。
この一帯は深沢に面して東・南・北の三方が谷となっていて、沢の方に突出した所を城山と呼んでいる、館址と思われる台地はそう広くないが耕地になっている。かつては近くの住民たちから「お堀」と呼ばれた塁らしい跡がその東端を巻くように残っていて、昔から深沢城の社であり武田の家臣深沢民部という人物の居城であったといわれている。
現在は林になっているが、上の台地から80mくらい下ったあたりを平らな中段が山を取り巻いている。城の外郭建物、堀などの建てられていた祉が想像される地形である。
深沢の谷は、このあたりから順に南に大きく開けて眺望も良いから、戦略上の要地として大事な場所であったかもしれない。
中丸旧塁址
深沢城祉の東北、深沢に面して突出し、南東面は急傾斜し、北西の台地に接するところに塁祉がある。藤武神社の鳥居前を東に抜ける旧道が左折、深沢の下り急坂にかかる左手前のあたりである。現在、芝土手の高さ1m幅8m延長50mくらいの土構造の塁砦状をした址が残っている。
この砦は「中丸旧塁」と呼ばれて古くから山梨の地誌に古蹟として紹介されてきた場所である。『甲斐国志』には「・・・里人は逸見清光が築いた塁だと言い伝えている。中丸という村名もこの塁祉に由来するものであろう・・・」などと紹介されている。また、幕末の嘉永年間に出された『甲斐叢記』にも「中丸旧塁」という見出しで同様なことが記されている。深沢城とは指呼の間にあって当時は両城が関連のある城砦であったと思われる。天正壬午の年、徳川と北条勢が百余日に及ぶ対陣の折り、若神子以北に布陣した北条勢によって増修築されたのではないかとも『甲斐国志』は述べている。
地形としてはこの地点から順に南に広く開ける眺望に加えて要害・難攻不落の地利を兼備した塁砦であり、当時としては逸見台上の戦略拠点として相当な要所であったにちがいない。     (小尾達朗・『甲斐国志』他)

長坂町教育委員会(平成12年)「長坂のむかし話」 長坂町役場

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北杜市長坂町中丸城山上
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