1539│迎冨士浅間神社

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ソース場所:笛吹市御坂町金川原603 迎冨士浅間神社

●ソース元 :・ 土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会   
       ・ 現地 由緒書より
●画像撮影  : 201年月日
●データ公開 : 2018年09月21日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

 

[概要]

迎冨士浅間神社[ムカエフジセンゲンジンジャ]
八反久保にあり、むかし武田信玄が富士山へ参詣しようとして、この塚上に休息された時、何処からともなく、富士山の牛王[ゴオウ](護符)が一枚落ちて来て佩刀に留まった。信玄大いに喜び、これより冨士浅間を迎えて勧請せよと云って、富士山に参詣せずに下向された。 (東八代郡誌)

土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
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迎冨士浅間神社御由緒

一 神社の所在地  東八代郡御坂町金川原字八反久保六百三番地

二 神社の名称
・  イ 仙元大菩薩    文正年間「室町時代 百三代 後土御門天皇 の時」
・  ロ 迎冨士浅間大神  永禄年間「室町末期 百六代 正親町天皇 の時」
・  ハ 迎冨士浅間神社  現在称す。

三 御祭神
・  木花開耶姫命[コノハナサクヤヒメノミコト]  本、迎冨士浅間神社は御土御門天皇の文正元年四月八日駿河国富士郡仙元大菩薩より瓊々杵命[ニニギノミコト]、木花開耶姫命、大山祇神[オオヤマツミノカミ]の御三体を遷祀せるものなり。当時、本部落は連年暴水の氾濫する名所となり 一般人民の困幣 実に名状すべからず。適々本部落の有志 新兵衛 外四名と共に 将来金川暴水の害を除くには、一ツに神の御加護を得るの外なくを信ずつ余り此の峯に出たるものの如し、よって後柏原天皇の文亀元年六月十五日(室町末期)木花開耶姫命を現在地に奉遷し瓊々杵命、大山祇神 二体に依り奉祀しせり。

四 御神徳
・  御祭神 木花開耶姫命は、大山祇神の息女にして、亦の御名を 神吾田鹿葦津姫[カミアガタカアシヅヒメノミコト] 又は 桜大刀自神[サクラオオトジノミコト]と申す。天孫 瓊々杵命 の妃として皇室の始祖大御母と仰ぎ奉る天神なり。
大神は木の花の咲き映ゆる如く艶麗優美の御容姿にして而も孝順、謙譲の美徳をもって天孫に御仕へして貞節 至純 国土経営に尽くされし内助の功 極めて大にして今日の日本の基礎を築き給ひし功徳は 永く日本女性の模範と敬仰し奉らる。古来山火鎮護、蚕、酒造の守護神。又、婚姻、子授、安産、子育ての霊徳神として崇敬極めて厚し。

五 神階勲等 及び  旧神格不明

六 神殿
・ 霊元天皇 延宝二年(江戸時代初期)本社拝殿 並びに数抱えの榎木消失後に 東山天皇(百十三代)の元禄三年庚牛の二月建築なる。即ち 石積 高さ一丈三尺の段に積み上げ、且つ其の上に 二間に三間の拝殿を設け、材板桧等にして草葺、石段に接し、鳥居有り欅作り朱塗りにて高さ一丈五尺

現地由緒書より
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迎冨士浅間神社は、古くから甲斐と駿河、相模などを繋いでいた鎌倉街道沿いにあります。迎冨士浅間神社の向かいには「立正大師(日蓮)御休憩」の石碑、さらに一キロ程御坂峠寄りには「日蓮大菩薩 御腰懸石」も残され、此の街道沿いを山梨縁の歴史的人物たちが行き交った様子が慕ばれます。

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笛吹市御坂町金川原603 迎冨士浅間神社
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