0343│板額塚

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ソース場所:笛吹市境川町小山

●ソース元 :・ 土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
       ・ Wikipedia より抜粋
       ・ 現地説明板
●画像撮影  : 2016年01月26日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

 [概 要]

板額塚
柳原にあり。豊富村浅利の七倉に居を構えていた。浅利与市義遠の妻板額の古墳という。板額は越後国鳥坂の城主城小太郎資盛の叔母で、勇婦であった。資盛が反逆を企てた時女ながらも奮戦したが、鎌倉軍に捕らえられ、将軍源頼家の前に引かれたが、浅利義遠その武勇を惜しんで、乞い受けて妻とし、相携えて甲州に入り、この地に逝ったと云う。一説には、板額の墓は右左口村向山にあり、小黒坂の方は、義遠と板額の間に生まれた娘のものだともいう。 (東八代郡誌)

土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
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板額塚由来
境川村小黒坂小字柳原のこの地は古くより板額塚と口伝えされてきたところである。
両側の里道は板額坂と呼ばれている古道である。
この板額塚は浅利与一義成の妻 板(坂)額の塚と言われている。板額女は鎌倉時代初期 越後国鳥坂(とっさか)城主の城小太郎資盛(じょうこたろうすけもり)の姨母(おば)である。城氏は桓武平氏の流れをくみ、武勇の名を天下にとどろかせた平維茂(たいらのこれもち)の子孫である。
時に資盛は鎌倉二代将軍頼家の代、建仁元年(一二〇一)越後鳥坂城(新潟県中条町)に拠って幕府に反旗をひるがえした。幕府は佐々木盛綱を総大将に鳥坂城を攻めた。城将 資盛の姨母 板額はおんなの身でありながら弓を射て百発百中 敵を倒したが、信濃の住人 藤澤四郎清親の矢に倒れ生虜られた。
城氏は敗れ、板額は鎌倉において将軍の前に引き会わされた。有力御家人の居並ぶ中で おじけず堂々としていた。浅利与一は板額を女房にしたいと嘆願した。朝敵を望むとはと問われ、与一は「同心の契約をなして壮力の男子を生み朝廷を護り武家を扶(たす)けたい。」と答え許されて甲斐に連れ帰った。
板額は身籠り安産祈願に藤垡瀬立不動に参る途次、帯石に立止まった故事が伝えられている。 板額の生んだ女子が武田五郎信光の七男、石橋八郎信継(石橋屋形住人)のもとに嫁いだといわれる。この地の名称も板額の浅からぬ因縁によるものと思われる。
ーーーーーーーーーーー平成九年九月    笛吹市教育委員会  (現地説明板より)

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「板額御前」
板額御前(はんがく ごぜん、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した女性の武将。越後国の有力な豪族・城氏の一族。日本史における数少ない女武将の一人で、古くから巴御前とともに女傑の代名詞として知られてきた。

城氏は有力な平家方の豪族であったが、治承・寿永の乱を経て没落、一族は潜伏を余儀なくされる。1201年城氏は源頼家に抗して挙兵。板額は、反乱軍の将として奮戦した。特に弓の名手として知られたが藤沢清親の放った矢が両脚に当たり捕虜となり、反乱軍は崩壊する。

坂額は鎌倉に送られ、将軍頼家の面前に引き据えられるが、全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕させた。自らも弓の名手として知られた甲斐源氏の浅利与一義遠はこの態度、武勇に深く感銘を受け、頼家に乞い願い彼女を妻として貰い受けることを許諾される。

坂額は義遠の妻として甲斐国に移り住み、同地において死去したと伝えられている。

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35.599785, 138.619221
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