0591│清光寺の高原夏期大学(1923年芥川龍之介などを呼び開催された。このときの資料が郷土資料館に展示されている)

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ソース場所:北杜市長坂町大八田6600 清光寺

●ソース元 :・ 長坂町教育委員会(平成12年)「長坂のむかし話」 長坂町役場 
●画像撮影  : 2015年11月12日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

[概 要]

清光寺の高原夏期大学     (大八田)

木漏れ日にしみいるようなせみ時雨。八ヶ岳南麓の巨刹 朝陽山清光寺(ちょうようざんせいこうじ)の森は、第二回高原夏期大学の会場とあっていつもの静寂さとは打って変わって境内に人が行き交い活気に満ちている。
北巨摩郡教育会の主催する催しということで、会場からはそう遠くない小学校に代用教員の資格で籍を置く文子も会を運営する係りの一員として大学講師接待の仕事が割り当てられていた。大正12年、甲府の女学校を卒業して間もない文子17歳の夏のことであった。
夏期大学の開催記事が地方紙山梨日日新聞に載ったのは確か7月20日ごろだったと文子は覚えている。それは彼女が教師となって初めての夏休みに入る時期だったからだ。内容は8月1日から5日間の講義題、講師紹介などの簡単なもので、聴講料は2円とされていた。大学では東京高等師範学校教授得納文(とくのうぶん)の哲学、文芸については作家芥川龍之介、加藤咄堂(とつどう)の宗教論等の講義。途中にピンポンやテニス大会、蓄音機を使ったレコード鑑賞会などをはさんで5日にわたって行われた。
講師はいずれもその道の大家とあって県内教職関係者はもちろんのこと寺院関係、甲府市在住の名士、大学在学中の学生など多彩な来聴者で連日200名前後になり、なかなかの盛会であった。
講師控室は奥方丈の一室が充てられ、講義は本堂で行われた。講義中も聴講生は自由に上着を脱ぎ各自がゆったりと座を取って柱にもたれるもの、足を投げ出しているもの、あぐらをかくもの、あちこちで扇子がしきりに動いていた。本堂左方の休憩室では聴講生がお茶を飲んだりピンポンをしたり怪気炎をあげていた。売店にはパン、ライスカレー、サイダー、ビールなど地元の仲田商店が沢山の物を揃えている。接待係りの仕事は忙しいには違いなかったが、休憩時の湯茶のサービスとか講師の私信を託されて郵便局に使い走りするようなことが多かった。文子のほかに秋田小の堀内、泉小の平井の各女教師が接待係りに充てられていた。 どちらも彼女よりは相当な年輩であった。大学内では、新聞「朝陽新報」が二時間おきくらいに発行された。「本大学内の空気を清浄にし睡魔を一掃し、和気あいあい裡に膨大なる文化的効果を収めんことを期す」、「本日報は、宗教、 哲学、文芸、道徳、社会、本能、脱線、誤解等宇宙のあらゆる事象についての記事を満載するの光栄を有す。ただし、風教を紊る(みだる)もの、政治、恋愛に関するものは多少差控うる良心を並有せんとす」・・・など発行の主旨を高らかに宣言し、言論の自由を聴講生にアピールしていた。新聞はわら半紙一枚のガリ版印刷ではあるが内容は奇抜で実に楽しいものだった。ある号の場合、ただいま折角講義中の講師の似顔絵入りの記事が手元に届くという速報ぶりである。聴講生からの投稿も活発で茶目っ気の多い学生どもが新開発行に一役も二役も買っているなと彼女は思った。
得能のカントやスノーザ、バークレーのなんとか説のような話は文子にはよく分からないし趣味もなかった。「哲学の講義で眼をパチクリさしているものがある。眠いからだとさ」ー 山梨日日新聞の記事が思い出されて自分も確かにその一人だなと内心では思っている。一方、加藤の宗教諭については哲学ほどではないにしても、彼女の最大関心事はなんといっても芥川の文芸論であった。接待係りの仕事の合い間を縫うようにして芥川の講義には耳を傾けていた。白い麻のかすりに呂の袴を着けた痩身長躯の芥川。想像していた以上に痩せているなと彼女は思った。彼の海軍機関学校教官時代に話がはずんで、
「諸君、シルクハットにえんぴ服を着けた僕の姿を想像したまえ、全くの漫画だよ」。聴講生の爆笑で一瞬本堂が揺れるように感じられた。緊張を和らげようと努める芥川の心配りである。彼の体験を交え笑顔で続ける歯切れのよい講義を一言も聞き洩らすまいと彼女は係りの仕事も忘れて聞き入るのであった。教師とはいいながらほんとうのところ時間に余裕があれば休憩室でピンポンでもしたい年頃の彼女である。芥川の5日にわたる文芸論の全てが分かったわけではなかった。ただ、彼が有島の代講を引受けここ清光寺に来たいきさつ、親友の菊池寛、久米正雄、谷崎潤一郎との交友関係が生んだドラマ、エピソード、悲喜劇にも似た文士生活の内輪話などには彼女なりに理解ができた。また、文学の無限性、だれも拒めない自由な天地の存在が文学の特性だというようなことも分かった気分になり得意だった。
3人の接待係りの中で飛び抜けて年若な文子である。サイダーびんの栓を抜き損ねて芥川の着物にかけてしまった彼女。この話には若干の尾鰭が付いて後々夏期大学こぼれ話「控室の珍事」として教育会の話題を賑わわせることになる。自分の粗忽さを平謝りする彼女に、
「いいんだよ。」
と、笑顔で対する芥川。そんな彼女にも終講の折り、

侘しさの絵には書けども葎(むぐら)かな     我鬼
文子女史へ

の一句を記念に与えている。彼女にはこの句の意味がよく分からなかったし、「女史」の意味が分かってきたのはかなり後のことだった。しかし、芥川がどんな意味をこめて「女史」としたのか彼女にはたいした問題事ではなかった。高原大学の5日間、接待係りの合い間を通して受け得た彼の人格とか文芸論への憧憬の方がよほど大きかったからであろう。
あれから4年、昭和2年7月24日未明芥川龍之介は35歳の生涯を自ら絶ってしまった。文子は泣けて泣けてならなかった。 こんな片田舎の名もない子が泣いているなどと芥川先生は夢にも思っていないだろう、高原大学の講座のこと、控室のサイダー事件、「朝陽新報」のことなど次々に思い出しては、また泣いた。日暮れの林の中の道だった。        (小尾達朗)

長坂町教育委員会(平成12年)「長坂のむかし話」 長坂町役場

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