0596│雛鶴峠(石舩神社「護良親王の首」)

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ソース場所:都留市朝日馬場442 石船神社

●ソース元 :・ 内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
●画像撮影  : 2015年10月08日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

[概 要]

雛鶴峠

弱まったとはいえ政治の実権がまだ鎌倉幕府に握られていた頃、天皇制の政権を取り戻そうと、後醍醐天皇はその子 大塔宮護良親王(おおとうのみやもりなが)を征夷大将軍とし、楠正成や足利尊氏ら多くの朝廷方の味方を得て幕府を倒し、念願の建武の新政が実現したのも束の間、源氏再興を図る足利尊氏は公家政治に不満をもっ武士達を集め後醍醐天皇に叛き、再び内乱となった。護良親王は捕らえられ、鎌倉の土牢に幽閉されていたが、やがて足利氏一族である足利直義のはからいで殺されてしまった。

親王には、雛鶴姫という側室があった。悲報に接し悲嘆にくれる姫であったが、吉野に戻って手厚く葬ろうと、厳しい監視の目をくぐり従臣を使って夫親王の御首(みしるし)を奪い、従臣数人とともに朝廷に味方する甲斐の小山田氏を頼り、官道である鎌倉街道は危ないので、相模川ぞいの脇街道を選び、さらに秋山川沿いに郡内入りを図った。人目をさけての逃避行の苦難がたたったのか、秋山峠に近付いたとき、身ごもっていた姫はにわかに産気づき一夜の宿を求めたが、既に足利氏が実権を握っているとなると、朝廷ゆかりの姫と知ればなおのこと、咎のおよぶことを怖れた無生野(地名)の人々は、姫の一行を助けようとはしなかった。
やむなく一行は無理を承知で望みを次の集落に託し、強行軍で秋山峠をようやく越えたが、小山田氏の居館にあと半日の行程としながら、姫の容体はこれ以上旅を続けられない状態となった。従者の手で作られたにわかづくりの枯草を集めた褥(しとね)で、苦しみながら王子を産むとともに姫は力尽きて亡くなってしまった。
その後、だれも宿を貸すことはおろか手助けさえもしなかった無生野の村を、情けのないところとして無情野と呼ぶようになり、雛鶴姫の越えた峠を雛鶴峠と呼ぶようになった。
姫の産んだ子は、葛城宮綴連王(かつらぎのみやつづれおう)と名付けられたが、七歳で幸せ薄かった生涯を終わった。
村人は、雛鶴姫とその子の霊を慰めるため、命を落とされたところに塚をつくり、神社を建立し、雛鶴神社と名付けて、手厚く祀った。

親王の御首は、従臣に守られて、しばらく隠されていたが、従臣は土着して農民となり、御首は朝日郷の氏神朝日馬場(地名) の石舩神社に安置されるようになった。
神社には「護良親王の首」と呼ばれる頭部のミイラが今も保存され、故事を伝えている。

(注) 大塔宮護良親王は「もりよし」が正しいとされるが地元での「もりなが」に従った。

内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版

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