1524│蕪開拓の話
ソース場所:北杜市長坂町中丸4492 長坂町公民館蕪分館 庭に開拓50周年を記念する碑がある
●ソース元 :・ 長坂町教育委員会(平成12年)「長坂のむかし話」 長坂町役場
●画像撮影 : 201年月日
●データ公開 : 2018年07月03日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概要]
蕪開拓の話 (蕪)
太平洋戦争が終わって間もない昭和21年ごろのことです。長い長い戦争のために、日本国中は食べる物も着る物もなく路頭に迷う人々であふれでいました。そこに、敗戦を外国で迎えた人々や旧軍人が、着のみ着のままの姿で続々と日本に帰ってきました。
食糧も住む場所も、仕事までもなくしてしまった多くの人たちは、国の援助をうけてその日その日を生きていくために、食べ物をつくり住む場所を求めて、それまで人の住んでいなかった山林や原野に入植しました。県内では、その多くは八ヶ岳山麓や富士山麓などの高冷地でした。各地から移住した人たちは、「○○開拓団」とか「○○帰農隊」という組合をつくり、集団生活をしながら、汗と土にまみれて毎日毎日開墾に取り組みました。
木や草のほか何もなかったここ蕪の地にも、海外から引き揚げてきた人、都会で戦災にあった人たちなど30戸が入植しました。
当時の蕪は、櫟(くぬぎ)、楢などの雑木林と茅の茂る原野でした。まず木を切り倒し、その木の根を掘り出し、草を刈る。機械がないので総てが手作業でした。一つの木の根を掘り出すのにも一日がかり、大きな根は、火薬を使って掘り出し、それを大勢で持ち出しました。掘り出した根は、乾くのを待って焼きました。こうして、木や草を取り除いた後を一鍬一鍬掘り起こし耕し、そこに陸稲を播きました。陸稲の間には西瓜を植え、収穫した西瓜は手分けして売り歩き、現金にかえました。
ブルドーザーなどで一気に開墾するようになったのは昭和29年頃からです。その頃から、蕪の農業経営に桃の栽培と酪農が入ってきました。30年代の蕪は、美しい桃の花に埋まった時代でした。その後桃は、ほかの産地の桃に押されて衰微してしまい今は、家のまわりに残された桃の老木がその頃の歴史を伝えています。
酪農は、28年に八ヶ岳南麓が酪農振興地域に指定されたのを契機に、昭和29年末に、一戸一頭宛て、19戸に導入されました。当時は、乳牛3頭飼えば一家5人が生活できるという指導でしたから、各農家で飼育するようになり、7,8年後には蕪全体で100頭以上が飼育されるようになりました。
昭和40年代になると、高度経済成長とともに酪農も次第に専業化され、多頭飼育になっていきました。それにつれて酪農をする農家は次第に滅り、現在は6戸の農家で260頭の乳牛を飼育し、毎日4トンの牛乳を出荷しています。
入植以来半世紀を過ぎ、蕪は二世の時代になりました。住んでいる人々の職業も多様化し、地区内にはゴルフ場や別荘もできました。最近では都会から移り住む人もふえて、蕪もすっかり変わってきました。
平成9年、蕪は開拓50周年を迎えました。その時開拓二世たちの手によって蕪公民館の庭に建てられた記念碑には、開拓者を讃える次の言葉が刻まれています。
第二次世界大戦が終結した翌昭和21年国策に依りこの地に入植する
爾来全国的食糧不足のもと生活苦と闘い鍬一本で開墾に励みあらゆる
辛酸に耐え今日の蕪区の基盤を築き上げた功績を開拓50周年を期に
限リない敬意と感謝を籠めて碑にその氏名を刻み永く後世につたえる
ものです 蕪区二世一同
(石倉朝太郎)
長坂町教育委員会(平成12年)「長坂のむかし話」 長坂町役場