1577│最恩寺(南部町福士23502)

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ソース場所:最恩寺 南部町福士23502

●ソース元 :・ 境内説明板   
●画像撮影  : 年月日
●データ公開 : 2021年05月06日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

 

【概要】

重要文化財  『最恩寺仏殿』
・              昭和二十八年三月三十一日 指定
当寺は、長久年間(西暦一〇四〇年)御朱雀天皇の御代の開創にて 本町最古の建立と云われ天台宗に属していたが 後に甲斐源氏武田の帰依を受け臨済宗に転宗し 現在に至っております。
この仏殿は、中国宋時代の仏殿建築の手法をそのまま移して建てたもので 典型的な唐様式で一名 禅宗建築とも呼ばれ禅の思想をよくあらわしております。特徴としては、身舎背面柱から「もこし」前面柱に大虹梁を渡し大瓶束を立て、又、軒には垂木を上下層とも用いてなく そのため大変に美しく見られる。
建立されたのは、室町時代の初期で応永二年(西暦一三九五年)と云われ武田氏の寄進にて仏殿、方丈、庫裏 等禅宗寺院としての伽藍を整備されたが貞享二年七月火災にあい仏殿だけが残り当時をしのぶことができる。
・              南部町教育委員会(境内の説明板より)
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最恩寺 甲斐源氏の興亡を見守った寺
寺伝によると、平安時代中期 長久年間[1040-1044年]の創建と伝えられており、当初は天台宗寺院であったという。応永年間[1394-1428年]臨済宗寺院として再興されたという。
この地は、甲斐源氏の中の加賀美氏から分かれた南部氏が領していた。
南部氏の始祖である 南部三郎光行 は、文治五年[1189年]の奥州平泉の戦いに、父 加賀美遠光 や兄弟達と共に 源頼朝 の本陣に従軍し、その時の戦功により 南部光行 は陸奥国糠部五郡の地を給され、建久二年[1191年]、家臣数十人とともに陸奥国に移ったと伝えられている。(鎌倉から離れた地に移ったが、外様にされたとかではなく、奥州の豊かな地を給されたのである。南部光行の名は陸奥に移る前も、その後も「吾妻鏡」の中に記されている。文治五年[1189年]六月九日の項や建久三年[1192年]十一月二十五日の項などでは、父の冠名 信濃守から 信濃三郎光行 とあり、文治五年七月十九日の奥州合戦への出発の項では 南部次郎光行[三郎の間違いでは?]、元久二年[1205年]十二月二十四日の項では、南部三郎光行が幕府内で訴状の処理をしている様子が記されている)
その後、永禄十一年[1568年]に武田軍が駿河今川へ侵攻する際、武田信玄が参詣し、寺領を寄進したと云われる。
戦国時代、この河内地域は穴山氏が領し、穴山信君[梅雪]、穴山勝千代[信治]期の棟別諸役免除等の文書が残されている。
穴山家の最後の当主 勝千代 は、梅雪の横死時、まだ幼かったので、徳川家康の庇護のもと当主となり、天正十五年[1587年]元服し、信治を名乗ったが、同年、病死した。勝千代の母はこの死を哀れみ、彼の肖像画を制作し、それが当寺に残されている。この肖像画は県指定の文化財となっている。
また、ここには国の重要文化財に指定されている仏殿がある。これは中世の関東禅宗様式の特徴を残すもので、同様な遺構として最古級なものの一つとされている。同様な建築物としては県内に 清白寺(山梨市)の仏殿 [国宝]、東光寺(甲府市)の仏殿 [国指定重要文化財]などと並ぶ。
最恩寺仏殿の建立年代は明確ではないものの、根太の床が土間から床張りとなる過渡期の手法を見ることが出来ることから、室町時代前期の応永年間(臨済宗寺院として再興された頃)と考えられている。
花頭窓や弓欄間などが見ものです。

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