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「YAMANASHI DESIGN ARCHIVES」は、山梨県に伝わる過去の優れた物品の造形や模様、自然から得られる色彩、今に伝わる昔話・伝説を、 産業上で使用することのできるデザインソースとしてデジタル化して配信する山梨県のプロジェクトです。

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#0596

雛鶴峠(石舩神社「護良親王の首」)

ソース場所:都留市朝日馬場442 石船神社


●ソース元 :・ 内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
●画像撮影  : 2015年10月08日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

[概 要] アーカイブNo.0301「無生野」、No.0302「雛鶴姫塚」でもふれたが、鎌倉幕府が倒れ、南北朝時代への時代の変革期、鎌倉の地で無残に殺害され、雛鶴姫が命がけで守ってきた大塔宮護良親王のものとされる御首級[ミシルシ]が、都留市朝日馬場の石舩神社に祀られています。

雛鶴峠  都留市朝日馬場にある石舩神社には後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王とされる御首級が祀られています。鑑定の結果、それは人の頭蓋骨であることは間違いなく、金箔が貼られ、両眼に水晶がはめ込まれたものであることがあきらかになっています。
鎌倉幕府が倒れ、南北朝時代への時代の変革期の悲劇を伝えるものです。護良親王とは後醍醐天皇の皇子として産まれ、幼き頃より利発聡明で、武芸に秀でていたことで知られていた。建武の新政で活躍するも、足利尊氏や義良親王を推す阿野廉子らの諫言などから、父である後醍醐天皇から疎まれ、鎌倉で幽閉されのちには、鎌倉を脱出する足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害されてしまった悲劇の親王。殺害される際、いかに武勇に恵まれた護良親王とはいえ9か月もの間、土牢に押し込まれていたので手足も思うさま動かず命を奪われてしまった。しかし、最後のその時まで、必死に抗い、喉元を狙う剣先を咥え、歯で噛み折ったという。そして首を取られてもなお、両眼を見開き、剣先をぎりりと咥えたままの凄惨な表情で淵辺を睨み据えていたので、あまりの恐ろしさに、その首は竹藪に投げ捨てられたと言われる。
鎌倉には護良親王の墓が存在するが、やはり首が投げ捨てられてしまったという言い伝えから、宮城県石巻の多福院には護良親王の生存伝説もある。
また、近しい者たちが首を持ち出した話もある。雛鶴姫の話がそれである。

親王が鎌倉で殺害された後、雛鶴姫はこっそり竹藪に捨てられた護良親王の首を拾い、朱に詰め胸に抱き、わずかな供を連れて決死の逃避行をはじめた。大きな街道を避け、人家もまばらな険しい道を甲斐へそして京へと向かおうとした。相模の国から甲斐の入り口ともいえる秋山無生野まで来たが、にわかに産気づき命がけの出産の末、雛鶴姫も皇子も亡くなってしまったという。残された家臣たちはこの地に留まり、護良親王や雛鶴姫、皇子の霊を供養した。その地は雛鶴峠と呼ばれるようになり、村では姫たちを祀った雛鶴神社を創建した。 護良親王の首は家臣の松木宗光らが富士吉田の小室浅間神社に納め、漆で塗り固められ神宝となったが、その後、足利尊氏らの探索から逃れるためその首は石船神社の近くに隠され、江戸時代石舩神社が再建された際に、御神体とし祀られるようになった。

 

・市指定有形文化財(市第十八号)
石船神社の複顔首級
・                     都留市朝日馬場四四二番地
・                     昭和五十四年三月一日指定
人の頭蓋骨に箔(金や銀を非常にうすい板のようにしたもの)を押しつけ、梵字(古代インドの文字。仏教遺物に多く使われている)を墨書きし、その上に小さな木片や漆と木屑を混ぜたような塑形材で肉付けして、生きている人の頭部のように仕上げられている。両眼には玉眼(水晶などで造られたもの)が用いられていたが、現在は左眼にのみ認められている。
この複顔技術は我が国でも最も古い時代に属するものとして高く評価されている。
なお、石船神社には、護良親王[モリナガシンノウ](1308-1355)の御首級であるという伝えがあり、同神社の御神体として古くから地域の信仰を集めている。
・             昭和五十六年十二月一日
・                     都留市教育委員会(境内の説明板より)

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雛鶴峠

弱まったとはいえ政治の実権がまだ鎌倉幕府に握られていた頃、天皇制の政権を取り戻そうと、後醍醐天皇はその子 大塔宮護良親王(おおとうのみやもりなが)を征夷大将軍とし、楠正成や足利尊氏ら多くの朝廷方の味方を得て幕府を倒し、念願の建武の新政が実現したのも束の間、源氏再興を図る足利尊氏は公家政治に不満をもっ武士達を集め後醍醐天皇に叛き、再び内乱となった。護良親王は捕らえられ、鎌倉の土牢に幽閉されていたが、やがて足利氏一族である足利直義のはからいで殺されてしまった。

親王には、雛鶴姫という側室があった。悲報に接し悲嘆にくれる姫であったが、吉野に戻って手厚く葬ろうと、厳しい監視の目をくぐり従臣を使って夫親王の御首(みしるし)を奪い、従臣数人とともに朝廷に味方する甲斐の小山田氏を頼り、官道である鎌倉街道は危ないので、相模川ぞいの脇街道を選び、さらに秋山川沿いに郡内入りを図った。人目をさけての逃避行の苦難がたたったのか、秋山峠に近付いたとき、身ごもっていた姫はにわかに産気づき一夜の宿を求めたが、既に足利氏が実権を握っているとなると、朝廷ゆかりの姫と知ればなおのこと、咎のおよぶことを怖れた無生野(地名)の人々は、姫の一行を助けようとはしなかった。
やむなく一行は無理を承知で望みを次の集落に託し、強行軍で秋山峠をようやく越えたが、小山田氏の居館にあと半日の行程としながら、姫の容体はこれ以上旅を続けられない状態となった。従者の手で作られたにわかづくりの枯草を集めた褥(しとね)で、苦しみながら王子を産むとともに姫は力尽きて亡くなってしまった。
その後、だれも宿を貸すことはおろか手助けさえもしなかった無生野の村を、情けのないところとして無情野と呼ぶようになり、雛鶴姫の越えた峠を雛鶴峠と呼ぶようになった。
姫の産んだ子は、葛城宮綴連王(かつらぎのみやつづれおう)と名付けられたが、七歳で幸せ薄かった生涯を終わった。
村人は、雛鶴姫とその子の霊を慰めるため、命を落とされたところに塚をつくり、神社を建立し、雛鶴神社と名付けて、手厚く祀った。

親王の御首は、従臣に守られて、しばらく隠されていたが、従臣は土着して農民となり、御首は朝日郷の氏神朝日馬場(地名) の石舩神社に安置されるようになった。
神社には「護良親王の首」と呼ばれる頭部のミイラが今も保存され、故事を伝えている。

(注) 大塔宮護良親王は「もりよし」が正しいとされるが地元での「もりなが」に従った。

内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版

このデザインソースに関連する場所

都留市朝日馬場442 石船神社

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