1573│有馬晴信謫居の跡

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ソース場所:有馬晴信謫居の跡 甲州市大和町初鹿野・栖雲寺 甲州市大和町木賊120

●ソース元 :・ 現地説明板   
●画像撮影  : 年月日
●データ公開 : 2020年09月09日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

 

史跡  有馬晴信謫居の跡
・                        東山梨郡大和村初鹿野
・                        昭和五十六年二月一日指定
有馬晴信 は 有馬十郎左衛門大夫 又は 有馬修理大夫 とも言い、長崎県塩原の日野江(原)城主であった。
天正八年(1580)にキリシタンの洗礼を受けて以来キリスト教伝道の施策を進めていた。天正十年(1582)に 大友宗麟・大村正純 等と共に欧州に遣欧使節を派遣し西欧各地を巡歴させて日本のキリスト教伝道の基礎を築き、又 西欧文化を導入して日本文化の向上にも大いに貢献するところがあった。
慶長十七年(1612)に 本多正純 の臣 岡本大八 のために長崎奉行 長谷川広智 を暗殺する謀があると欺かれたので幕府の咎に触れ、同年三月二十二日に駿河の城主 徳川大納言忠長卿 の家老で都留郡谷村の城主 鳥居土佐守成次 の元に家来三十五人と共に預けられた。
土佐守は甲斐の城主 大久保石見守長安 に謁見の上この地を晴信の謫地とし幽閉したのである。
その後、幕府の検使 板倉周防守重宗 は家来百五十名を率いこの地において晴信に幕府の命を伝え自刃を迫った。
晴信は幕使を慇懃に迎えてその命に従うことを誓ったが自刃はキリシタン天主の十戒に背く行為なので老臣 梶左ヱ門 に斬首の執刃を命じた。晴信はキリシタンの習わしに従い死に臨んでの一切の行事を行った後、従容として斬首されたのである。時に慶長十七年(1612)五月六日 享年四十六歳であった。
・             霊 名  ドン・ヨハネ
・             仏霊名  晴信院殿迷誉宗転大禅定

大和村臨済宗建長寺派天目山栖雲寺所有の「虚空蔵菩薩」の画は 有馬修理大夫晴信 のものと言われており、胸に十字架が金色燦然と描かれてある。この画像が徳川幕府のキリシタン禁教の厳しい詮索を逃れて来たことは極めて意義深いものがある。

・   昭和五十七年二月       大和村教育委員会    (現地説明板より)
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戦国時代、日本人として初めてヨーロッパに公式に派遣され、ローマ法王に謁見した「天正遣欧少年使節団」の物語は、欧州まで命がけで行きローマ法王に謁見した華々しい部分は、小説やドラマの題材にもなり良く知られているが、その後は何ともやるせない人生が待ち受けていた。
少年使節団が日本を発ってから八年後、やっとの思いで帰国すると日本は伴天連追放令が出され、キリスト教禁止となっていた。彼らは、困難の中、悲劇的な人生を送ることになったのだが、彼らをヨーロッパに送り込んだ大名たちにも悲劇が待ち受けていた。
その中の一人、日野江城主だった有馬晴信もこの地に幽閉され、ここで最期を迎えた。キリスト教信者であったがためでなく、長崎奉行の暗殺計画を持っていると捕らえられた。これは龍造寺氏との代々の争いで失われた地を回復するという宿願に付け込んできた岡本大八にだまし取られた銀貨のことを訴えたら反対に晴信が長崎奉行の殺害計画を有していると訴えられた。本意ではなく失言をつかれたようだ。ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ事件の時デウス号に時間をかけた攻撃をしたことを長崎奉行長谷川藤広に「てぬるい」と評され、思わず熱くなり「次は藤広を沈めてやる」と口走ったことを引き合いに出されたのだが、再三の尋問に藤広への害意を認めてしまった。

幕府の政策がキリスト教を禁教にし鎖国へと進む中で、キリスト教徒であることで海外の要人に食い込み南蛮貿易を得意とする晴信の重要度が低下していったということでしょう。

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有馬晴信は熱心なキリスト教徒であるとともに、世界の存在を知っている武人であった。文禄の役では第一陣として釜山へ攻め込み、以降六年間を朝鮮半島で過ごした。また、慶長十四年には幕府の命を受け台湾に部下を派遣し、貿易の可能性を探ってきた。マカオにも朱印船を送っている。そして取引をめぐり争いが起これば家康に仇討の許可を得てポルトガル船を包囲する(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件)。経済武人の側面を持ち、幕府にとっては南蛮貿易で莫大な利を得て幕府に貢献していた為、また有馬晴信の嫡男 有馬直純のもとには徳川家康の養女 国姫が嫁いでいたこともあり、秀義や家康がキリスト教を禁止するようになっても領内への監視の目はそれほど厳しくなかったようで、彼の領内には多数の隠れキリシタンが集まってきたようです。その領土、肥前国日野江藩は慶長十九年有馬氏が転封のちに幕府領、やがて松倉家が入り島原藩と呼ばれるようになる。藩の圧制や重税、キリシタン弾圧に耐えきれなかった庶民たちが、日本の歴史上最大規模の一揆を起した島原藩である。

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