物語
Old Tale
#1270
「鳥居焼き」と「笈形焼き」
ソース場所:笛吹市春日居町鎮目3681 菩提山長谷寺 / 笛吹市春日居町鎮目 山梨岡神社 / 甲州市勝沼町勝沼3559 柏尾山大善寺
[概要] 甲府盆地の夜を彩る勝沼の「鳥居焼き」、石和の「笈形焼き」。これが、大昔、平安時代に二つの大寺院の間で起こった大喧嘩がきっかけの行事である事はあまり知られていない。
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「鳥居焼き」と「笈形焼き」
甲府盆地の夜を彩る勝沼の「鳥居焼き」、石和の「笈形焼き」。これが、大昔、平安時代に二つの大寺院の間で起こった大喧嘩(その内容はもはや戦争)がきっかけの行事である事はあまり知られていない。
京都の盆送りの行事を真似たわけではない。独自の行事なのである。
平安時代の末期、互いに千を越す坊を持つ真言宗の大伽藍 菩提山長谷寺と柏尾山大善寺は同じ真言宗の寺でありながら、違う派に属していた。お互い問答をたたかわせていたが、どこか相容れないものがある。今と違い、政治と宗教がイコールの部分を持つ時代、問答の勝ち負けが自分達の生活をも大きく変えてしまうような時代に、二つの寺は問答をしては小競り合いをしていた。小競り合いといっても、命がけの宗教修行をしていた僧達の喧嘩は力ずく。死者がでるような喧嘩が続いていた。
ある時、ついに壊滅的な喧嘩が始まった。どんな問答が元になったかは今となっては分らないが、いろいろ溜まっていた感情にほんの些細な一言が火をつけてしまったのかもしれない。
派手な喧嘩(たくさんの死者がでたり、附近の田畑は踏み荒らされたり、建物には火がかけられたり、戦争と呼んだほうがふさわしいような事態)には、お寺の近くの村人達が迷惑を蒙った。山梨岡神社の神官は「もう様子を見てなんかいられない。一日も早くこの喧嘩に決着をつけるしかない」と長谷寺に加担すると決め氏子たちもそれに従った。
それに怒った大善寺側は、山梨岡神社の鳥居を持ち去り、焼き払った。
何てことだと長谷寺側は、大善寺に入り込み修行僧の大事な笈を持ち去り、それを焼き払った。
こんな事件が「鳥居焼き」と「笈形焼き」のもとになった。今も山梨岡神社には鳥居がない。
自らの心の内に向かい静かに修行しているイメージのお坊さんたちに、こんな血気に逸った面を見せていた時代があったのかと思っていると、、、時代が下がり鎌倉時代。当時の新興宗教である「日蓮宗」に抗い戦って、ついには改宗していったお坊さんたちの話が見られる。これはまた別のお話で。
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御室山(おむろさん)
山梨岡神社の背後にある山。山梨岡神社の岡は御室山を指し、古来より神の入る場所として信仰されてきた。
中腹には山梨岡神社旧社地・御室山古墳がある。旧社地は神聖な場所とされ、かつては祭日に御輿が登っていた。御室山古墳は積石塚の円墳で直径11m、高さ2m。石室は南西方向に開く無袖型横穴式石室で、全長約7mである。
また、毎年四月上旬には御室山では笈形焼き(おいがたやき)が行われる。笈形焼きは笈を模した一辺400mの日本一の規模を持つ山焼きである。昭和63年(1988)4月に復活した。山梨岡神社には笈形焼きの場所や御室山周辺の様子等を記録した「山争いの図」が保管されている。 山梨県・春日居町(現地説明板 やまなしの歴史文化公園)
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柏尾山 大善寺
真言宗智山派の柏尾山大善寺は甲州市勝沼町勝沼にある。養老2(718)年2月8日に行基が開創し、聖武天皇から柏尾山鎮護国家大善寺の寺号とともに勅額を賜り、代々皇室の祈願所とされ52堂3000坊を数える隆盛をみたが、当初の堂宇は平安時代初期に焼失したという。
天禄2(948)年に三枝守国が再建したが安元2(1176)年に菩提山長谷寺の僧徒と争い建物はすべて焼失しているが、 当時の検非違使であった平清盛の高倉天皇に対する再興の上奏により、翌年再興が図られたものの、再建された堂宇は文永7(1270)年5月に初雁五郎の謀反により再度被災したが、弘安7(1284)年に時の執権北条貞時が勅を奉じて再建勧進し8年の歳月を得て再建され、その際に建立され現存する建物が現在の本堂である。
弘安9(1286)年3月16日の刻銘がある本堂は、築720年以上が経過し関東周辺で最も古い建物とされている。
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菩提山 長谷寺(ちょうこくじ)
甲斐国志によると、奈良時代の養老六年(722)行基により開かれ、平安時代より甲斐における真言密教の霊場と知られた真義真言宗菩提山長谷寺(ちょうこくじ)。平安後期には周囲の山々だけでなく平地まで建物が軒を連ね「千坊」と称され隆盛を極めた。500段程ある石階段の参道を上りきると本堂へたどり着く。かつては山門があったが災害により消失。本堂は江戸時代の建築と言われていますが、建築材の一部には中世の本堂廃材が使われていると言われています。本尊が十一面観音であり、女人信仰の厚い仏さまであったことなどから、「女人高野」とも呼ばれた。
平安時代末期には同じ真言宗である、勝沼の柏尾山大善寺との間で、問答が原因による壊滅的な争いが行われたと伝わる。死傷者も多くでたという。その際、長谷寺に協力した山梨岡神社の鳥居は大善寺側により持ち去られ焼き払われてしまっている。また、長谷寺側も大善寺から修行僧が使用する笈(おい/山伏が背負う箱)を持ち帰り焼いてしまったという。春日居の笈形焼と勝沼の鳥居焼はそのときの名残なのだとか。山梨岡神社に鳥居がないのはそのためだと伝わる。
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