物語
Old Tale
#1601
四郎作古戦場跡(甲州市大和町初鹿野)
ソース場所:甲州市大和町初鹿野 四郎作古戦場跡
●ソース元 :・ 現地説明板より
●画像撮影 : 年月日
●データ公開 : 2022年12月26日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
【概要】 甲斐武田氏滅亡時、武田勝頼、嫡男 信勝、正室の北条夫人らが、あわただしくも自害する間を作るため、最後まで残った家臣たちが死を恐れず僅かな人数で戦った地。特にここに陣を構えた小宮山内膳友晴は、重臣たちの諫言により蟄居を命じられていたが、「譜代の臣でありながら、武田家最後の戦いに臨めなかったなら小宮山家末代までの恥辱であり武士道にも背く」と、前夜、追い詰められた勝頼の元に駆けつけ主君のために散った。
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四郎作古戦場(しろうつくりこせんじょう)の由来
小宮山内膳友晴(友信)は武田の重臣小宮山丹後守昌友の長男として武田氏に仕え諸国への使い番十二人衆の一人に数えられ 武田軍政に重きをなしていた。天正三年の長篠合戦以後武田軍の中枢は重臣たちによって司られていたが小宮山内膳はその折々、軍のため率直に意見を述べた。重臣たちはこれを快しとせず理非をわきまえずにこれを否定し遂に讒言により主君の勘気を被り蟄居を命ぜられ幽閉の身となった。しかし天正十年三月十一日(一五八二年)に武田勝頼は多くの重臣たちに離反され一族と共にこの付近に於て最後の決戦をする運命に陥ったのである。小宮山内膳は主君の危急を知り決戦の前夜一行に追い付き「友晴が譜代の臣でありながら、武田家最後の戦いに臨めなかったなら小宮山家末代までの恥辱であり武士道にも背くゆえ蟄居の許しを請い最期の戦いに御盾となり高思の万分の一にも報いたい」と言上した。勝頼は「あっぱれな武士の鑑よな余の不徳の致す処であった。」と直ちにこれを許し。小宮山内膳は勇躍戦いの最前線であるこの地に陣を敷き寄せ来る敵と奮戦数刻の末従容として主君に殉じたのである。戦いの直後奇しくも内膳の弟僧の拈橋がこの地を訪れ殉死した一族の霊を弔い内膳には「 忠叟道節居士」の法名を贈った後に水戸藩の儒者藤田東湖は文天祥の正気の歌に和して「或殉天目山 幽囚不忘君」と詠み崇高な至誠を貫いた内膳の忠節義烈を称している。
この碑には内膳友晴の末裔一族と共に竜王町の小宮山清茂氏が資材を提供し敷地は地主の平山勝広氏の提供によるものである。
昭和五十四年十月 大和村教育委員会 平山 三郎 謹撰 ・ 小宮山 とし子 謹書 (現地説明書きより)
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