物語
Old Tale
#1195
倒さ塚(河尻塚)
ソース場所:甲府市岩窪町 河尻塚
●ソース元 :・ 現地説明板
●画像撮影 : 2017年02月04日
●データ公開 : 2017年01月05日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概要] 天正十年織田軍による甲州征伐の際、織田の黒母衣衆筆頭であった河尻秀隆は、まだ若い織田信忠の補佐役として信州から甲州を制圧し、次々と武田に味方する者を滅ぼし、同年三月十一日ついには武田氏を滅亡させた。信忠軍の戦法は苛烈で残忍なものだったと伝わる。三月下旬、甲州入りした織田信長は穴山領を除く甲斐国を河尻秀隆に与えた。信長は信忠と共に富士山見物後、四月二十一日安土城に戻り、その後、京に向かい六月二日未明の本能寺の変で命を落とす。信長亡き後、武田家旧家臣や民衆により河尻秀隆は討たれ、この地に逆さまに埋められたと伝わる。
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甲府市指定史跡
河尻塚(かわじりづか)
指定年月日 昭和六十二年三月三十一日
所 在 地 甲府市岩窪町二六八
この地は織田信長の家臣河尻肥前守秀隆の首塚とも、また彼の屋敷跡とも伝えられている。
織田信長が武田氏討伐の軍を起こしたとき(一五八二年)河尻秀隆は軍目付として活躍し、甲斐と信濃諏訪郡の領主となった。背後の信長の権力を利用し威圧的な政治を行ったと伝えられる。しかし本能寺の変により織田信長が殺害されると、秀隆に反感を抱いていた武田家の旧家臣や農民等の一揆の攻撃を受け、この地に埋葬された。埋葬された時秀隆は、圧政のうらみをかってさかさまに埋められたことから「さかさ塚」の異名を持つ。
(秀隆は肥前守に任ぜられているので、碑文に刻まれている「肥後守」は誤り)
平成二十年三月十七日
甲府市教育委員会
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長いこと甲斐の国を治めていた武田氏が悲劇的に滅亡し、国を運営するための新たなシステムを作る事になった河尻肥前守秀隆。織田家の黒母衣衆筆頭で織田の甲州攻めにおいては織田信忠軍随一の功労者とされる河尻秀隆の、戦いにおける能力は優れたものがあったのだろう。暴れ者が多い信忠軍を抑えながら統率し進軍した。信長からはとても信頼が篤かった。ただ、新領地を治めることには向いていなかったように伝わる。でも彼の政治力を語るにはあまりに短期間の甲斐統治だった。天正10年3月11日 武田氏滅亡、同年6月2日 本能寺の変、同年6月18日 武田の遺臣によって河尻秀隆が殺害される。武田の遺臣狩りや武田家縁の寺社の破壊等を民衆から恨まれ一揆を起こされた末の最後と伝わる。
彼が伝えられているような民衆に恨まれるような人物だったか、もう少し織田の天下が続いたら良君といわれるような人物になったかはわからない。信長の死後、甲斐の国内での不穏な動きや徳川の怪しい動きは承知していたのに、織田家臣で唯一武田の領内から逃げ遅れた(徳川に対峙するため敢えて甲斐に留まったか)様子から、実は生真面目で武器用なタイプだったかもしれないと感じた。
寂しく足場も悪い地に、塚石も曲がって建っているのをみると、武田家とその領民の無念、河尻秀隆の無念を想う。
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