物語
Old Tale
#1268
矢坪の一つ火と法印様
ソース場所:山梨市矢坪1088 永昌院
●ソース元 :・ 曹洞宗 龍石山 永昌院HP http://www.eishouin.jp/、「山梨の伝説」(1979)山梨県国語教育研究会:編 日本標準:出版 を参考にさせていただきました。
●画像撮影 : 201年月日
●データ公開 : 2017年11月02日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概要] 永正元年(1504)、戦国時代真っただ中、相模には北条早雲が、駿河遠江には今川氏親が、虎視眈々と甲斐を狙っている時期、甲斐国内は守護武田信昌(武田信玄の曽祖父)が嫡男信縄に当主を追われ、信昌や穴山信懸は次男の信恵を後継者に立てて信縄と争っていた。そんな、国内が不安定な時期、永昌院住職の傳海法印は村の人々の幸せを祈るため、この地で災害があってはならない、人々の安全を脅かすものがこの地に侵入してはならぬと、暗い山中を毎日のように提灯片手に杖をつき見回っていたという。しかし、ある夜、見回りに出たまま二度と帰る事が無かった。法印を慕った人々は、彼の像を造り寺に祀った。しばらくすると不思議なことに雨の後は像の杖先が濡れて居たり、法印が見回りしていた時のように、山中に小さな灯りが見えたりしたので、法印さんが見回りしてくれていると信じた。 でも、この寺が武田信昌による重要な戦略上の情報拠点だった。と妄想すると、盆地が見渡せるこの地で、山中の灯りや、法印の見回りが違うものに見えてきてそれもまた楽しい。
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矢坪の一つ火と法印様
山梨市矢坪の永晶院は、(寺記によると)真言宗の寺院でした。
曹洞宗 龍石山永昌院としての開基は、武田信玄の曽祖父 武田信昌(1447-1505)とされ、永正元年(1504)に開創されました。
龍石山永昌院としての初代住職は存命中に天皇より「神嶽通龍禅師」の禅師号とともに「紫衣」を賜り今も寺宝として伝わっています。その後、名僧が相次ぎ江戸中期の頃には甲州、武州に96ヶ寺の門葉を数えるまでになり、曹洞宗常恒会地に昇格し数十棟の伽藍を数える禅林となりました。
この時期、永昌院の22世および23世住職は、曹洞宗の大本山 永平寺の住職に就任しています。
この寺院の開基と言われる武田信昌公の墓所に向かい合って、古い墓石があります。
永昌院開創時の前住職 傳海(傳海)法印の墓所です。
永昌院のある矢坪地区には「矢坪の一つ火」という伝承があります。
傳海法印はただひたすら村の人々の幸せを祈った僧だったという。この地で災害があってはならない、人々の安全を脅かすものがこの地に侵入してはならぬと、暗い山中を毎日のように提灯片手に杖をつき見回っていたという。
或る日、見回りにでた傳海法印が寺に戻らず、村人達が山を隈なく探したが法印の姿はどこにも見当たらなかった。法印を慕っていた村人たちは嘆き悲しみ、法印の姿を木像にし本堂に安置した。しばらくすると不思議なことが起こった。雨が降ると木像の杖に泥がつくのだ。ぬぐってもまた雨が降るたび泥がつく。人々は「法印様は今でも山の見回りをしてくれているに違いない」と語り合った。
時々、傳海法印が見回っていた時の提灯明かりのようなものが山中に見えた。人々は、傳海法印様が見回り、村を守っている合図と信じた。
今でも、春彼岸最終日に「傳海法印様の供養」が、矢坪地区の婦人会の方々主催で催されている。
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