


物語
Old Tale
#1181
三日血川
ソース場所:甲州市大和町田野 土屋惣蔵片手斬跡
●ソース元 :・ 山梨県連合婦人会 編集・発行(平成元年)「ふるさとやまなしの民話」
・ 土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
●画像撮影 : 2017年03月11日
●データ公開 : 2017年01月05日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。












[概要] 甲州市を流れる日川は、「三日血川」の別名を持つ。天正十年 織田率いる徳川、北条、木曾の連合軍による甲州征伐の際、武田勝頼軍は主だった家臣らを失い、また裏切られ僅かな人数で天目山付近に追い詰められた。この時、武田 家臣の土屋惣蔵(昌恒)は、狭矮な日川沿いの山道で、片手を木のつるに絡めて、知らずに一列になり攻め入る織田軍の兵を、もう片方の手にした刃で次々と切り捨て、その兵らの血潮で日川は三日間にわたり血の色だったという言い伝えがある。土屋惣蔵(昌恒)が敵を切り捨てた場所は「片手千人斬りの地」として、史跡碑が建っている。
三日血川
天正十年というから今から四百年以上も前のことです。甲斐の国には武田信玄の息子で勝頼という人がいました。
信玄のころは日本一強いといわれた武田軍団でしたが、勝頼の時代になると織田信長の勢力に押されていました。あるとき織田は徳川家康の軍勢とともに甲斐の国に侵入してきました。
勝頼はつくったばかりの新府城を捨てて、一路郡内の岩殿山城に向って落ち延びようとしました。
勝頼の軍勢が岩殿山に向う途中、田野(現大和村)のあたりまできたとき、またまた岩殿山の小山田信茂が裏切ったという報らせが入り、勝頼は進退きわまってとうとう死を覚悟し、山道をたどって切腹の場所を探し求め、家臣の土屋惣蔵に後のことを託しました。すでに国の内も外も敵で満ちていました。
勝頼が日川の上流に向って行くとその先にも敵が待ち構えてました。仕方なく引き返そうとしたとき、惣蔵は一人残って狭い道の曲がり角で敵を防ぎました。この場所は大勢の兵が一度に通れず一人づつようやく通れるところです。
惣蔵は道路沿いにあった藤蔓につかまったまま、曲り角から一人づつ攻めてくる敵を切りつけては崖の下へ突き落としました。一人また一人と敵兵は日川に突き落とされて、たちまち日川の河原には死人の山ができました。
惣蔵は刀がボロボロになると、次々に新しいのに替えて、とうとう千人もの兵を切り倒してしまったそうです。しかし惣蔵の方もそこへ敵の矢が放たれて、谷底へ転げ落ち壮烈な死を遂げました。惣蔵の奮斗の間に勝頼たちは山中に死に場所を見つけて集っていました。
惣蔵のために日川に突き落とされた千人もの兵が流した血は、川の水を赤く染めて、それは三日間も色を失わなかった、といいます。
人々はのちにこの川を「三日血川」と呼ぶようになり、後世まで土屋惣蔵の片手切りの活躍を語り伝えました。(大和村)
山梨県連合婦人会 編集・発行(平成元年)「ふるさとやまなしの民話」
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日川
東八代、東山梨両郡の境を流れている。古書にはみつ川(満川)と書き、三日血川、又は三日川ともいう。天正十年三月、天目山において武田勝頼戦死し、川水血を流すこと三日に及び、流水ために赤色に変じたのでこの名があるという。古法眼元信この川端に休んで、側の石に矢立を以って地蔵を描き、その墨が石中に滲みこんで今もあるという。 (裏見寒話。東八代郡誌。東山梨郡誌)
土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
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