物語
Old Tale
#1279
なさけの島屋
ソース場所:都留市中央4-3-6 専念寺
●ソース元 :・ 内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
●画像撮影 : 201年月日
●データ公開 : 2017年12月05日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概要] 江戸時代の事です、今の都留市で名主として農業のかたわら絹識物を商う島屋という家が有った。ここの当主 森島弥十郎は後年、甲府勤番支配・松平伊予守定能に協力して、不滅の書『甲斐国志』の編集に携わり、都留郡の部を完成させたインテリでもあった。 天明三年、大凶作で餓死者も出てきた。この時、弥十郎と、弟で後に兄から島屋の家督を譲られた理八は、これを儲けのチャンスにはせず、代官所に届けたうえで、大量に炊き出しを行い、谷村近郊はもとより上郷一帯にかけて餓死する人を出させなかったと云う。
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なさけの島屋
江戸時代には大凶作がしばしばあった。凶作ともなれば農民でさえ、自分の食べる米が不足し、大きな農家から食べ物となるものを買い求めるありさまで、米価は高騰し、ついには買うに買えず、売るにも売るものなしの状態となる。野の草や木の実はもちろん、ワラビの根まで掘って食べるようになり、自然に病人なども増え、こじき同然になりながら食を求めて歩くものも出、飢え死にする人も出た。
天明三年は大凶作であった。飢餓状態が頂点に達するかに思われたとき、下谷村の長百姓であり、かたわら絹識物を商う島屋の当主 森島弥十郎は、弟 理八と相談して、それまで「ない、ない」で通してきた米を、飢民を救うための救済米として使うことを代官所に届け出た上で、自分の店の前に粥炊き場を設けた。
粥炊き場が設けられたことを知ると飢えた人々が群がり集まった。その人たちに来る日も来る日も、二人は粥を炊き与えた。また病などの事情を聞いては、応分の施米もした。こうして蔵出しした総量は三百九十俵に達した。その結果、谷村近辺はもちろんのこと、上郷一帯にかけて餓死する人はなかったという。
このことは代官所を通して幕府の知るところとなり、義挙をたたえて、銀五枚が与えられた。弥十郎、理八の兄弟に対する世間の評判は、一挙に高まり、自然に村民は当時三大尽とされた谷村の大店を
恋の今来屋 なさけの島屋 こころ邪険な油藤
とうたった。
弥十郎はほんとうに考え深い人であり、無欲な人であった。商人として飢饉という絶好のもうけどきに、あえて無料の炊き出しを行ったばかりでなく、そののち、商い盛んな島屋の家督を弟に譲り、昌平校に入学し、学を修めて帰郷し、塾舎 朋来園を開いて経人の教育に当たった。
後年、甲府勤番支配・松平伊予守定能に協力して、不滅の書『甲斐国志』の編集に携わり、都留郡の部を完成させた。その書は、二百年近い歳月を経てなおますます価値を高めている。
内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
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