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Old Tale
#1558
浄福寺(浄福寺跡[伝 源有雅 幽閉地])
ソース場所:浄福寺跡[伝 源有雅 幽閉地] 甲府市小瀬町338
●ソース元 :・ 甲斐志料集成3(昭和7-10年) 甲斐志料刊行会 編(裏見寒話 巻之二 寺院 の項より) 甲斐志料刊行会 編『甲斐志料集成』3,甲斐志料刊行会,昭和7至10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1240842 (参照 2024-08-27)
・ 現代語訳 吾妻鏡 五味文彦・本郷和人 編 参照
●画像撮影 : 年月日
●データ公開 : 2020年08月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
【概要】 甲府の小瀬スポーツ公園からほど近い、コンビニエンスストアの裏手の目立たぬ場所に、後鳥羽上皇の近臣だった 源有雅 [ミナモト ノ アリマサ] が一時幽閉されていた浄福寺の跡を示す石碑がある。「承久の乱」で朝廷側が敗れ、有雅は宇治橋合戦にて逃げ出すもすぐに捕らえられ、鎌倉へ向け護送されたが、鎌倉まで連れて来るには及ばずと小瀬村で処刑された。「幽閉地」とはあるが、(朝廷方の公卿たちもそれぞれ処刑された地に到着して間もなく処刑されている)処刑のための手続き所のような場所で、到着後間もなく処刑されたかもしれません。 (「吾妻鏡」承久三年七月二十九日の項より) 「吾妻鏡」には、源有雅が北条政子と縁が有り、政子に向け助命を嘆願したが、預かっていた小笠原長清がせっかちにもすぐ処刑してしまって、その後、政子から赦免の書状が届いたとある。しかし、同時期に京を立った按察卿(葉室光親)が七月十二日に富士山麓の籠坂で処刑されている。(同七月十二日の項) もしかすると小笠原長清は、有雅を浄福寺に幽閉し書状が届くのを待ったが、幕府からの処刑命令も重ねてあり、政子の体面を保つため、「せっかちにもすぐ処刑した」とされたのかもしれない。
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浄福寺 小瀬村
小地。畑の中に松杉4,5本茂って小高い所があり、そこに不二権現が祀られている。里の人が言うには、平家の大将の古墳だという。(幽閉地とは別に小瀬団地内に源有雅のものと伝わる墓がある。)
以前(まだ住僧がいた頃)、村の者が「この地の木を伐って、薪にして売れば寺の為にもなる」と言うので、住僧が許し、すぐに木を伐った。 その夜、束帯した(公家の格好をした)人が僧の夢に現れて、社地の老樹を伐ることを怒った。木こりも同じ夢を見た。 村人たちは恐れて、平家の大将の姓氏を調べようとしたが、古い事でなかなか分からなかった。
甲陽謹士の中に飢龍と号する人がいた。その人が諸書を読んでみると承久三年(1221年)六月 佐々木中納言有平(有雅)、甲斐国 小瀬河原において誅せられる事 とあった。
古老にここに伝わる覚書などから、この不二塚が有雅の墓に間違いないとして縁起を作った。
佐々木黄門有雅卿は「承久の乱」の時、都方(平氏)の大将だった。宇治川合戦に敗れて捕まり、小笠原信濃守長清 預かりで当国へきて、板垣の庄 小瀬河原において処刑された。有雅卿、「二位殿(二品禅尼と呼ばれた北条政子)に助命を嘆願したいと使いの者を急いで鎌倉へ送っているので刑の執行を待ってほしい。」と長清に願い出たが、長清は聞かず処刑した。斬首後、しばらくして有雅の家来が、二位殿より赦免の書状を持ってきた。
(裏見寒話 巻之二 寺院 の項より)
[裏見寒話とは、野田成方が甲府勤番士として在任していた享保九年~宝暦三年(1724-1753)までの30年間に見聞きしたり、調べた甲斐の国の地理、風俗、言い伝えなどをまとめたものです。只々聞いたものを記すだけでなく、良く考察されており、当時の様子や、一般の人達にとって常識だった歴史上の事柄を知ることが出来る。]
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