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「YAMANASHI DESIGN ARCHIVES」は、山梨県に伝わる過去の優れた物品の造形や模様、自然から得られる色彩、今に伝わる昔話・伝説を、産業上で使用することのできるデザインソースとしてデジタル化して配信する山梨県のプロジェクトです。

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The “YAMANASHI DESIGN ARCHIVE” is a project in Yamanashi prefecture that distributes the design sources of shapes and patterns of fine goods that have been passed down in Yamanashi prefecture since the past, colors from nature, old tales and legends that have been passed down to the present, and written material that has existed in the region since ancient times through a digital format for industrial use. Please make use of these sources for product development, education and research, service development, etc.

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Old Tale

#1586

金峰山洞雲寺[トウウンジ]と加藤光泰[カトウミツヤス](山梨市牧丘町北原1117)

ソース場所:金峰山洞雲寺 山梨市牧丘町北原1117


●ソース元 :・ 現代語訳 吾妻鏡  五味文彦・本郷和人 編  参照  
       ・ 公益財団法人やまなし観光推進機構「山梨の歴史を旅するサイト」
       ・ 山梨市hp
       ・ 『愛媛県誌稿上巻』 愛媛県、1917年 /「大洲藩」の項
       ・ 国立国会図書館デジタルコレクション 太田亮 著 「姓氏家系大辞典」姓氏家系大辞典刊行会 1934年 加藤ー⑫景義流
       ・ データベース「えひめの記憶」愛媛県史 近世上 昭和61年1月31日発行 
●画像撮影  : 年月日
●データ公開 : 2021年07月12日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

【概要】武田氏が滅んだ後、わずか二年半程(天正十九年三月~)の在任期間でしたが甲斐国の再興や、寺社の保護、甲府城築城などに手腕を発揮した加藤光泰について調べていたら、保護した名だたる寺社に混じり、当時無住になっていた小寺の再興を行っていた。不自然に感じ調べてみた。すると彼の名前が、鎌倉時代の甲斐源氏弱体化に関係ある人物に繋がる。 洞雲寺と加藤光泰の間には、四百年間にわたる氏族の歴史と思いがある。

 

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金峰山 洞雲寺
甲斐源氏の一族、安田義定は建久五年(1194年)源頼朝に討たれました。自刃した三男 安田義安を弔った安養寺を、豊臣秀吉の武将・加藤光泰が洞雲寺として開基しました。本堂前には珍しいヤツブサノウメ(八房の梅)があります。     (公益財団法人やまなし観光推進機構「山梨の歴史を旅するサイト」https://www.yamanashi-kankou.jp/rekitabi/about/index.html より)
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山梨市指定有形文化財
・ 木造 阿弥陀如来坐像(洞雲寺)
・         平成11年10月22日  指定
・         管理者  洞雲寺 山梨市牧丘町北原1116

洞雲寺は建久8年(1197)に建立され、当初は真言宗に属し 浄谷山 安養寺 と称し、現在地より北方の山沢にありました。天正18年(1590)加藤光泰により現在の北原上道に移され、金峰山 洞雲寺と改称しました。
本像は衲衣[ノウエ]を偏袒右肩[ヘンタンウケン]に着け、腹前に定印を結び 結跏趺坐[ケッカフザ]する通形の阿弥陀如来像です。
江戸時代の彫刻らしい形姿を見せる尊像です。
・         像高   25.6cm        (山梨市hpより)

偏袒右肩[ヘンタンウケン]・・・・仏教僧が相手に対し恭慶の意を示す着以上の礼法。袈裟の右肩をはずして、左肩だけを覆う着方。
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鎌倉時代のお話
鎌倉幕府を堅固なものにするため、源頼朝は利用できる力は利用尽くし、その力が強大になってくると、別の理由で前もって手足が動けないような状況にしてから、ほんの僅かな失敗や失言とも思えないような言葉をとらえて、殺害するような事をしてきた。
安田氏を滅ぼした時の主だった実行役は、「吾妻鏡」によると梶原景時と加藤景廉でした。
『吾妻鏡』の内容を抜き書きすると  【】内はその日の概要

◎建久四年(1193)十一月二十七日
【永福寺薬師堂の着工式】

◎建久四年十一月二十八日
【安田義資 ヤスダヨシスケ 、女官に恋文を渡したとして斬首される】
(永福寺薬師堂の着工式に来ていた)僧正が京都へ帰りました。
この日の夕方、越後守 安田義資が女性問題で首をはねられ処刑されました。処刑担当は加藤景廉に仰せつけられました。義資の父 安田遠江守義定も、縁者として罰を被ることになるでしょう。
(女性問題と云うのは)昨日の永福寺薬師堂供養の最中に、お経を聞いている女官の所へ義資が恋文を投げ込んだのです。女官は後日の災難を恐れて敢えて表沙汰にしなかったのですが、梶原源太左衛門尉景季の妾[竜樹の前 という人]が、夫の景季に告げ口をしてしまいました。景季もまた、父の 梶原景時に話してしまいました。梶原景時は、ここぞとばかり将軍 頼朝様に報告しました。
そこで事の真偽を調べてみると、女官たちの言葉が符合するので、この様な処分になりました。
(中国の故事に)「三年も東家の間近に仕えてきたのに、たった一日で首を刎ねられるような事になろうか」
(没年記事)
・   従五位下守 安田越後守源義資[歳]
・   遠江守 安田義定の長男
・   文治元年(1185)八月十六日(従五位下越後守に)任命された

【恋文を送る事が処刑されるほど悪い事かというと、反対に 江間義時(北条義時)の場合は、何度も恋文を送ったにもかかわらず女官( 比企藤内朝宗 の娘で美人で有名だった 姫の前)が全く相手をしてくれないのを源頼朝自らとりなして、義時から「姫の前さまとは絶対に別れたりしません」との起請文を取って女官に「誓いの文もあるし、嫁してはどうか?」と勧めたりしている。(もっとも義時は「比企能員の変」直後に比企氏の娘である 姫の前とは別れてしまったようですが。)   「吾妻鏡」建久三年九月二十五日 の項より   なので、失敗や失言は何だって良かったように思います。しかも一説によると義資本人からの恋文ではなく、弟が見初めた女官へ取り持ってやるための文だったともされています。】

◎建久四年十一月三十日
【安田義資の越後所領の処理についての記載か?】
人々が上からの頂き物を受ける。因幡前司 大江広元、民部太夫 藤原行政、大蔵丞 頼平がこの手続きを担当したという。

◎建久四年十二月五日
【有力武人の解体。安田義定の領地を取り上げる】
遠江守 安田義定は所領、遠江国浅羽庄の地頭職を取り上げられた。加藤景廉がその替えに任命されました。今日、任命書を与えられました。大蔵丞 頼平が手続きを担当したそうです。

◎建久五年(1194)八月小十九日
【安田義定の処刑】
元遠江守の安田義定を処刑しました。昨年、子息の安田義資が処刑され、所領を取り上げられたので、頻りに愚痴をこぼしていました。又、普段から仲の良い人たちに相談し、反逆を企てようとしていることが発覚したからだそうです。
(没年記事)
遠江守 従五位上 源 朝臣 義定[歳 六十一]
安田冠者義清(源義清)の四男
寿永二年八月十日、遠江守に任命され、従五位下の位を与えられた。
文治六年正月二十六日、下総守に転任(文治六年二月十日、同二十五日の項に、安田義定が後白河法皇から揺さぶられている様子が記されている)
建久三年三月六日、遠江守に再任
同年同月同日、従五位上を与えられました。

◎建久五年八月小二十日
【安田義定の部下を処刑】
遠江守(安田義定)の部下五人を名越の辺りで斬首しました。いわゆる、前 瀧口榎下重兼、前 右馬允宮道遠式、麻生平太胤國、柴藤三郎、武藤五郎 等です。和田左衛門尉義盛が担当しました。

 

加藤氏のお話

こうやって安田氏を滅ぼす実行役だった、梶原景時と加藤景廉ですが、梶原景時は源頼朝の死後、追放され一族とともに滅ぼされました(「梶原景時の変」)。その時、景時と親しかった加藤景廉も連座して所領のいくつかを取り上げられるなどしたが、その後の「比企能員の変」や「和田合戦」等の活躍もあり幕府の中心に居続けた。景廉の長男 景朝は美濃國恵那郡遠山荘を本拠地として遠山氏として続いていく(時代劇でおなじみの「遠山の金さん」こと遠山景元はその子孫)。
加藤景廉の父は 景員、兄は 光員、と家系を辿っていくと、光 と 景 が加藤氏の特徴のようで、遠山氏もまた、光と景、又は景光などのようなその両方の文字が続く。加藤光泰の家系は景廉の子 景義 から続く家で、遠山氏程の名家ではなかったようだが、同様に美濃の国で光と景の名で続いていた(国立国会図書館デジタルコレクション 太田亮 著 「姓氏家系大辞典」姓氏家系大辞典刊行会 1934年 加藤ー⑫景義流 参照)。彼らもまた加藤景廉の子孫としての誇りをもって続いていた家ではないかと思う。
鎌倉幕府成立時の親兄弟、昨日までの戦友も信じきれない関係は、今現在の感覚で云えばドロドロしたマイナスなイメージでしかないですが、時代の変革期には、命がけで一手一手を打っていき、どんなに裏切りに満ちていても、生き延び、時代を変えていくことこそが正義であったのではないかとも思う。そして、加藤光泰の生きた戦国時代も同様であり、だからこそ、自分の先祖の生き方を数百年の時を超えリスペクトしていたのではないでしょうか?そして、尊敬する先祖にゆかりの地、甲斐国を治めることになり、無住になり寂れた「安養寺」(安田義定と共に討たれた義定三男 義安を弔った寺)に気付きこれを「洞雲寺」として再興したのだと考えます。
加藤光泰にとっての安田氏は、先祖の敵ではなく、ともに命がけで時代を変えてきた「いつかの加藤氏だったかもしれない氏族」なのではなかったでしょうか。文禄二年、文禄の役(豊臣秀吉の朝鮮侵攻)に出陣していた光泰は、帰国直前に発病し八月二十九日陣中で死亡した。その遺骸は甲斐に送られ、甲斐善光寺に葬られた。
加藤光泰以降の加藤氏は、もう光と景ではなく泰の文字が続くようになります(データベース「えひめの記憶」愛媛県史 近世上―第六節 大洲藩の項 昭和61年1月31日発行 参照)。変革の時代が終わり、加藤氏の安定と繁栄の時代には、裏切りの正義よりも忠義や好学が必要となったのでしょう。光泰の子 貞泰 の時、徳川方につき戦功を立て元和三年(1617)伊予大洲藩に入封し,以降、廃藩置県により大洲藩が廃されるまで加藤氏は大洲藩を領した。愛媛県史によると加藤氏は代々好学で、武道や仁愛節義を重んじたという。幕末期に坂本龍馬が運用した蒸気船「いろは丸」は、大洲藩の所有船だったという。今でいう市町村レベルの小藩でありながら最新の技術の必要性を知っていたのは好学であったからこそでしょう。

あなたの数百年前のご先祖様は、何を大切に思い、何のために生きていたか御存知ですか?そして時代は違っていても、そこに共感できる価値観はありますか?

このデザインソースに関連する場所

山梨市牧丘町北原1117

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