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「YAMANASHI DESIGN ARCHIVES」は、山梨県に伝わる過去の優れた物品の造形や模様、自然から得られる色彩、今に伝わる昔話・伝説を、産業上で使用することのできるデザインソースとしてデジタル化して配信する山梨県のプロジェクトです。

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The “YAMANASHI DESIGN ARCHIVE” is a project in Yamanashi prefecture that distributes the design sources of shapes and patterns of fine goods that have been passed down in Yamanashi prefecture since the past, colors from nature, old tales and legends that have been passed down to the present, and written material that has existed in the region since ancient times through a digital format for industrial use. Please make use of these sources for product development, education and research, service development, etc.

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Old Tale

#1602

鳥居畑古戦場跡(甲州市大和町田野)

ソース場所:甲州市大和町田野


●ソース元 :・ 現地説明板より   
●画像撮影  : 年月日
●データ公開 : 2022年12月26日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

【概要】天正十年(1582年)織田信長は朝廷に働きかけ、武田勝頼を朝敵であると認めさせた。(承久の乱の時、後鳥羽上皇から朝敵とされた北条義時が動揺し、武士達もどちらについたほうが良いか京に向けて侵攻中でさえ、それぞれ様子を探る状態だった。北条政子が自信をもって方向性を示していなければ鎌倉幕府は根底が揺らいだと思われるように、武士にとって朝敵とされることは恐怖であった)これにより織田側は朝敵である武田氏を討伐することが正義であると大義名分を得、織田軍による甲州討伐が開始された。折り悪く、直後に浅間山が噴火し(命がけの選択をしている武士たちにとって、人の手の及ばぬ災害は、選んではいけないという神からの警告のように感じた事でしょう。もちろん勝頼が木曾へ援軍を送れなかった事や、兄の失脚までは勝頼が諏訪氏の棟梁として育てられていた事など、武田の家臣達が勝頼に命を預けて良いものかと悩ませる下書きを、勝頼の人心掌握力や強運で上書きすることが出来なかった不運もありました。)、武田の家臣たちの動揺は激しく、次々と重臣たちが離反していった。新府城からの転戦中にも離反する者が増え、ついには百人にも満たない僅かな家臣と女官達だけが勝頼らと行動を共にし此の地にたどり着き、織田軍に囲まれた。鳥居畑古戦場は、いよいよ平安時代からの歴史を持つ名門甲斐武田氏滅亡時、武田勝頼、嫡男 信勝、正室の北条夫人らが、あわただしくも自害する時を作るため、最後まで残った家臣たちが死を恐れず僅かな人数で戦った地という。

 

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鳥居畑古戦場
時、天正十年三月十日孤影消然僅かな家臣を従えて敗走つづける勝頼公の一行が、ようやく笹子峠の麓、駒飼についた時、 岩殿城に連絡に行った土屋昌恒が急ぎ帰り、城主小山田伸茂が謀判を計っている事を言上し、勝頼公は止むなく天目山に籠り防戦をする事に決め、付き従ふ者は、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、土屋昌恒等四十三人、初鹿野から日川の渓谷づたいに田野の里に入った。其時かねて侫人の讒言により、主君勝頼公の勘気にふれて幽閉されていた小宮山内膳友信は今こそ最後の御供をと田野の本陣に馳せ勝頼の許しを乞ふたのである。
その夜天目山の頂きは残雪を残して寒気きびしく疲れはてた主従は明日の運命を悟りきってか深い眠りにおちていた。明くれば三月十一日谷底の里、田野の夜がすっかり明けやらぬ払暁、忽然山麓より一隊の人馬が土煙を山霧にかくして押しよせて来た。 織田信長の先鋒滝川一益、河尻鎮吉らの軍勢約四千である。勝頼公は己の命運のつきたことを知ると、十六才の嫡子信勝を招き 新羅三郎以来武田家に相伝された小桜韋威鎧楯無の鎧を着せて懁甲の式(*1)を挙げた。(現在景徳院内に有り)
秋山紀伊守光継、阿部加賀守、小宮山内膳友信、土屋昌恒等百人に満たさる小勢を以て駒場口より攻め寄せる織田軍と戦い 撃退する事数度以て勝頼公をして従容死を決するを得せしむ。生害石、甲将殿直前に3枚の扁平なる石有り、勝頼公、夫人、北條氏世子信勝公の生害せし処。 現在景徳院内に有り。
「山雲月を掩ふて夜色自ら惨たり」と史書はこの時の様子を伝える。武田家滅亡最後の激戦地なり。

私はこの古戦場跡に立ち戦国の古の習いとは云え、先人の歩んだ苦難の道を思いおこし尊い血を流し、戦死された方々の霊のただよう三日血川のほとりに、お慰め出来る事ならと思ひ供養碑をたてる事に致しました。供養碑を建設するに当り、ご協力くださった方々に深く感謝の意を表します。       秋山繁治     (現地説明板より)

(*1)懁甲の式・・・〔懁 文字の意味が、気ぜわしいさまを意味するので、信勝の元服(鎧着の式)を急いで行った事を意味すると思われる〕

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説明文中に、小桜韋威鎧楯無の鎧が景徳院内に有るかのようにも読める文章があるが、懁甲の式を行った場所が、現在の景徳院敷地内にあるという意味かと思う。
小桜韋威鎧楯無の鎧については、武田家の家督相続の証であるため、武田信玄の代には、甲府の鬼門鎮守として菅田天神社に納められていた。
しかし、長篠の合戦で武田軍が敗れた後(または田野の地で武田信勝が懁甲の式を行った後)、家臣が向嶽寺に一時埋めた。それを徳川家康が掘り出して菅田天神社に奉納したという伝承があり、今も菅田天神社に奉納されている。これは何回か修理などされた跡はありますが、平安時代からの古い時代の鎧兜の様式を今に伝える貴重な物で、国宝として指定されている。

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天正10(1582)年3月11日、武田勝頼の一行を追撃するために、門井沢や不動沢の駒飼口から攻め寄せる織田・徳川の先鋒隊川尻・滝川の軍勢4,000に対し、武田勢は秋山紀伊守・阿部加賀守ら100人に足らない少数でこれを迎え撃ち、撃退させること数度におよんだ激戦地である。多勢に無勢と、戦いは武田方に利なく全員戦死となったが、この間に田野の勝頼一行は敵軍に撹乱されることなく死途についたと伝えられている。
地名の鳥居畑は、近くに鎮座する田野の産士神として祀られる氷川神社への参道入口で、一の鳥居のあったところから名付けられたといわれる。
(大和村の文化財より)

このデザインソースに関連する場所

甲州市大和町田野 鳥居畑古戦場跡

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山梨各地に伝わる昔話や伝説、言い伝えを収録しています。昔話等の舞台となった地域や場所、物品が特定できたものは取材によって現在の状態を撮影し、その画像も紹介しています。