0351│聖徳太子の富士登山

ソース場所:富士吉田市新倉613 大原山如来寺
●ソース元 :・ 参照:「富士市 ふるさとの昔話シリーズ」 http://www.city.fuji.shizuoka.jp/ct/other000008400/minwa1_p126-127.pdf
・ 内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
●画像撮影 : 2015年07月13日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
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【概要】 甲斐の国は古来より良馬の産出する地として知られていた。「日本書紀」にも「或る男を処刑場に送ったが思い直し赦免するため、どの馬より早く駆ける甲斐の黒駒を刑場に遣わした」と云う話が記されている。そして、平安時代になると甲斐の黒駒の話に聖徳太子伝説が加わり、聖徳太子の富士登山のお話が伝わるようになった。『聖徳太子が献上された多くの馬の中から神馬を見つけた。それが甲斐の黒駒で太子が試乗すると、天を駆けて去ってしまった。宮人達が心配していると三日後聖徳太子が 「東国へ行き、富士山に登り、信州をまわってきた。」とひょっこり戻ってみえたと云う』
聖徳太子の富士登山 ~山の神に教えを請う~
聖徳太子が摂政の頃、良い馬を献上させた話は有名です。多くの馬の中で、すばらしい馬が一頭いました。
太子は大層喜び大切に飼わせました。その年の秋、調教ができたのでためし乗りをしました。太子がまたがり、手綱を引きムチをあてると、馬はすごい勢いでとびだし、東の空へ飛んでいきました。アッ、と驚いた宮人たちは、顔色を変えて騒ぎだしましたがどうしようもありません。
ところが三日目の朝、太子はひょっこり帰り「とても愉快だった。空へ飛び上がって、雲の中をしばらく飛んだと思ったら、富士山の頂上だったよ。富士山を見物して帰ってきた」とおもしろそうに話しました。
「頂上におりると大きな岩穴があった。この穴を進むと金色に輝く岩が並び、金銀でつくられた美しい門があった。さらに進み、奥の院らしい境内へ入ると両眼をぎらぎらさせ、剣のような舌をだし、口から火を噴いている大蛇がとぐろを巻いていた。
私はこれが山の神だと思い、ひざまずいて『人民のためにどのような政治をしたらよいか教えてもらいたい』とお願いした。すると大蛇は、大日如来の姿に変わり『和をもって貴しとなし、あつく三宝をうやまい、礼をもって本とせよ』とおおせられた。私は必ず教えに従うことを約束して、再び馬に乗って帰ってきた」と一同に話しました。
参照:「富士市 ふるさとの昔話シリーズ」
http://www.city.fuji.shizuoka.jp/ct/other000008400/minwa1_p126-127.pdf
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天駆けた聖徳太子
弘法大師や親鸞聖人や、日蓮上人のように、人々にあがめられるような人は、みんな人の力を超えた不思議な力を備えているが、十人の人が一度に話をして聞き分けることができるということで知られている聖徳太子(厩戸皇子)も、やはり人の力を超えた不思議な力を持っておられた。
推古天皇の御代に、日本各地から名馬が集められた。名馬の産地として有名な甲斐の国からも何十頭もの馬が奈良の都へと送られたが、それとは別に献上馬して特別に贈られた馬があった。全身真っ黒だが、四つ足は真っ白という一きわ目だつ馬で、若駒ではあるが筋骨隆々としていまにきっとたくましく育つだろうと誰もが注目した黒駒であった。
摂政をしてい太子(厩戸皇子)は、諸国から集められた数百頭の馬の中で、この馬が特に気に入り、自分の馬として求め調使麿に命じて、この馬を飼わせた。太子自らも仏像を礼拝し、法華経を誦んで愛馬の調教を祈願した。そのかいあってか、数々の馬を手掛けてきた調使麿も、疾風のごとく駆けるようになったこの黒駒の見事な成長にたまげた。
天皇の摂政として十七条の憲法を制定したり、諸国に寺院を建立して「新しい国の礎は仏教をもってす」と、仏教の興隆に尽したりして朝廷を中心とする国づくりにはげむ太子は、朝廷の威光が国の津々浦々に行き届いている様子を調べるために、国見に出かけることとなった。たくましく育った黒駒の試乗の機会の到来である。太子は「三日で日本の視察を済ます」と言って、調使麿に命じて黒駒を出させた。都で一番の調教師にあずけた上、仏像を礼拝し経をあげて祈願し育てた黒駒に託す信頼の並々ならぬものを感じさせることばであった。その信頼を裏書きするように太子が経を唱えて黒駒にまたがると白い四足の足もとから雲がわき、たちまち雲に浮かんで衆人みな驚く中を、東方に向かって空を駆け去った。
雷電のような速さでたちまち黒駒は、ふるさと甲斐の国に高くそびえる富士山までやって来たところで、七合目におり立った。富士は先祖天つ神々の住まう霊山であり、仏祖大日如来の座します山である。座して富士を礼拝し国家の隆昌安泰と五穀豊穣を祈ることしばしであった。祈り終ると再び黒駒を駆らせて信濃から越の国と転じて空からの国見を無事果し三日にして奈良へと戻った。
決して駒の形をしているわけでもないのに、富士山七合目のこぶ山を駒ケ嶽というようになったのは、こうしたわけがあったからである。駒ケ嶽には、その後聖徳太子足跡の地として如来寺の小庵室が建てられ、黒駒に乗った太子像が祀られるようになったが、今その像は、富士吉田市新倉の大原山如来寺の寺宝となっている。
この飛行で太子が尋常の人ではないと、大勢の人が畏敬し崇拝するところとなり、太子の仏教をもって国を治める柱としようとする政策に、大いに役立ったという。
内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
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富士吉田市新倉の大原山如来寺には「黒駒に乗った太子像」が寺宝となっている。