物語
Old Tale
#0397
西行峠
ソース場所:南巨摩郡南部町万沢西行 西行公園
●ソース元 :・ 現地歌碑、説明板 などを参考にさせていただきました。
・現地説明板より 旧富沢町設置
●画像撮影 : 2015年07月27日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概 要] 昔、西行法師が東国行脚の途中、この地を訪れたので西行峠と呼ばれている。峠にある西行公園には西行がこの地を訪れた際詠んだとされる歌が歌碑として建っている。 また、西行はこの地を訪れた際、きこり又は子供が詠んだ歌の意味がわからず、甲州ではこんな人が難しい歌を詠むものだと驚いたというお話が伝わっている。
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西行峠
西行法師は文治2年(1186年)、京を離れ東国行脚の途中、駿河の国より富士川に沿って甲斐に入り、この峠の麓の村にしばらく庵を結びました。それにちなんで、この村を西行村、峠を西行峠と呼びます。
西行峠は今は西行公園として整備され、西行がこの地を訪れた時(当時、富士山が噴煙をたなびかせていた)詠んだ歌が歌碑となって建立されている。
風になびく
富士の煙の
空に消えて
ゆくえも知らぬ
わが思ひかな
西行峠より見る富士山は「盆中の富士」といわれ、笛吹市と富士河口湖町の境にある御坂峠、北杜市の花水坂とならんで「富士見三景」と賞せられている。
また、西行法師がこの地を訪れた時、きこりの戯れ歌の意味がよくわからず、甲州では樵でさえこんな歌を詠むのかと驚いたという話や、歌に自信をもっている西行を諌めるために神様が子供に変身して歌を詠み、慢心を知らせた等のおはなしもある。
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ふるさとの史跡 西行公園
「風になびく 富士の煙の 空に消えて ゆくへも知らぬ わが思ひかな」
この歌は西行法師が文治2年(1186年、平家が壇ノ浦の戦いに敗れた翌年)68才の時、京から東国行脚の折り駿河よりこの地に入り、噴煙がたなびいている富士山を見て詠んだもので西行晩年の傑作であります。
西行法師は平安末期より鎌倉初期の歌人で、動乱の世に自然と旅を愛し当時第一の歌人とたたえられ、新古今集に最高の94首が残されています。
「願はくは 花のしたにて 春しなむ そのきさらぎの 望月のころ」
(わたしが願うことは、桜花の下で春死のうということ。それも釈迦が涅槃に入られた2月15日夜の頃。)
と、かねて望んでいたように建久元年(1190年)2月16日河内の国の山里で72才の生涯をとじています。
西行という名前の由来は西行法師が東国行脚の途中、駿河の国より富士川に沿って甲斐の国に入り、この峠の下の村に庵を結び暫く住みました。故にこの村を西行村、峠を西行峠、峠までの坂道を西行坂と言います。
この西行法師ゆかりの西行峠は、かつての甲駿往還であり身延道であります。文永11年(1274年)5月に日蓮上人が身延山へ入山する時この峠を越えており、万治2年(1659年)8月に深草元政上人が西行峠の素晴らしさを漢詩に残しています。戦国時代に甲州武田軍の駿河攻めや武田勝頼追討の徳川軍もこの峠を越えています。
西行峠より見る富士山は「盆中の富士」といわれ、御坂峠、花水坂と並んで「富士見三景」と称せられています。大正初期に大町桂月(紀行文の第一人者)が富士見三景巡りにここを訪れ、西行峠の素晴らしさを桂月全集に残しています。 富沢町(現地説明板より)
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