物語
Old Tale
#0345
仙洞田
ソース場所:南巨摩郡富士川町高下仙洞田
●ソース元 :・ 現地由緒碑 より
●画像撮影 : 2015年05月22日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
【概要】 甲斐源氏 加賀美遠光の子 南部光行 は、鎌倉幕府で戦功を上げ甲斐国南部牧を与えられ、信濃三郎から南部光行と名乗りを変えた。奥州合戦で戦功を挙げると陸奥国に領地を与えられ、彼の六人の息子は一戸氏、三戸南部氏、八戸氏、七戸氏、四戸氏、九戸氏それぞれの祖となった。 公文書として残る子孫は陸奥の国へ向かってしまったが、南巨摩の地に残った子孫もいたのでしょう。南部光行の兄、小笠原長清の子孫は室町時代、戦国時代、江戸時代を生き延び今に続く小笠原家なので、南部重清なる人物も北面の武士として天皇にお仕えする事があったのかもしれません。天皇に忠功を励み美しい姫を賜り、仙洞田の地へ帰ってきました。彼が仙洞田姓の始まりと伝わります。
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浅黄媛と仙洞田の由緒
仙洞田家に伝わる古文書によると甲斐源氏の加賀美遠光の子孫南部次郎重清は尊王の念厚く後花園天皇に北面の武士としてお仕えしていた。美男で能く忠功を励んだので院の御意に叶い高嶺の花と恋い慕っていた美しい内侍の浅黄媛に仙洞の二字を添えて賜った。帰国を許され甲斐の街道筋 高下村 に居を定め田畑を拓き 戴いた仙洞の二字に田を加え仙洞田重清と号し、仙洞田集落として栄えた。
然し世は応仁の乱の兆しが現れ重清は御所警護の為、同伴を求める妻を言い含め京都に上った。戦乱は長びき音信も途絶えて姫は寂しさに耐えかね悲しみに沈むばかり 姑に命ぜられた麦搗きも思うにまかせず嘆かわしさに、我慢の緒が切れ一思いにと姫の五体は宙に浮き激流渦巻く滝壺に没し姫ん淵の名を止めている。
重清は姫の菩提を弔うため延寿寺を創立、遅れること九年にして没した。里人は姫宮神社を創り、鎮守氏神として祀り重清と姫の為に墓を建てた。
子孫の仙洞田一族は栄え青柳村などえ移り住む者等、現在も静かな山里に菊花の御紋章が輝いている。
古文書により 平成十四年 秋彼岸
仙洞田 貞夫 誌之
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