0302│雛鶴姫塚

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ソース場所:上野原市秋山12799

●ソース元 :・ 山梨県連合婦人会 編集・発行(平成元年)「ふるさとやまなしの民話」     
       ・ 内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版           
●画像撮影  : 2015年10月18日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

[概 要]

雛鶴姫塚   都留市朝日馬場にある石舩神社には後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王とされる御首級が祀られています。そして上野原市秋山 無生野にはその首を運んだと言われる雛鶴姫の塚があります。それらは、鎌倉幕府が倒れ、南北朝時代への時代の変革期の悲劇を伝えるものです。
護良親王とは後醍醐天皇の皇子として産まれ、幼き頃より利発聡明で、武芸に秀でていたことで知られていた。建武の新政で活躍するも、足利尊氏や義良親王を推す阿野廉子らの諫言などから、父である後醍醐天皇から疎まれ、鎌倉で幽閉されのちには、鎌倉を脱出する足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害されてしまった悲劇の親王。殺害される際、いかに武勇に恵まれた護良親王とはいえ9か月もの間、土牢に押し込まれていたので手足も思うさま動かず命を奪われてしまった。しかし、最後のその時まで、必死に抗い、喉元を狙う剣先を咥え、歯で噛み折ったという。そして首を取られてもなお、両眼を見開き、剣先をぎりりと咥えたままの凄惨な表情で淵辺を睨み据えていたので、あまりの恐ろしさに、その首は竹藪に投げ捨てられたと言われる。
鎌倉には護良親王の墓が存在するが、やはり首が投げ捨てられてしまったという言い伝えから、宮城県石巻の多福院には護良親王の生存伝説もある。
また、近しい者たちが首を持ち出した話もある。雛鶴姫の話がそれである。

親王が鎌倉で殺害された後、雛鶴姫はこっそり竹藪に捨てられた護良親王の首を拾い、朱に詰め胸に抱き、わずかな供を連れて決死の逃避行をはじめた。大きな街道を避け、人家もまばらな険しい道を甲斐へそして京へと向かおうとした。相模の国から甲斐の入り口ともいえる秋山無生野まで来たが、にわかに産気づき命がけの出産の末、雛鶴姫も皇子も亡くなってしまったという。残された家臣たちはこの地に留まり、護良親王や雛鶴姫、皇子の霊を供養した。その地は雛鶴峠と呼ばれるようになり、村では姫たちを祀った雛鶴神社を創建した。 護良親王の首は家臣の松木宗光らが富士吉田の小室浅間神社に納め、漆で塗り固められ神宝となったが、その後、足利尊氏らの探索から逃れるためその首は石船神社の近くに隠され、江戸時代石舩神社が再建された際に、御神体とし祀られるようになった。

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ひなづる姫
秋山村に無生野大念仏があります。
昔、南北朝の時代、後醍醐天皇の皇子に護良親王(もりながしんのう)という方がおられましたが、この親王の悲劇にまつわる人々の魂を鎮めるために、始められたと伝えられています。
建武二年、足利直義(あしかがただよし)のため、鎌倉の牢で首をはねられた親王は、あまりの無念さに死後も刺客 淵部義博(ふちべよしひろ)の顔をにらみつけておりました。義博は怖れおののき、その首を牢獄近くの竹やぶに捨てて逃げました。
これを知った親王の寵姫 雛鶴姫(ひなづるひめ)は、その首をひろい従者と共に鎌倉を逃れたのです。けわしい山を越え、苦難の末に秋山村古福士(こふし)にたどりつきました。そこで七日間をすごした一行は、秋山川をさかのぼり無生野まで来ましたが、その頃の無生野は人家も少なく、宿を乞う家も見当らないままに、権田橋のたもとで野宿することになりました。
その時、姫は護良親王の御子を宿されておられ、すでに臨月の身重でした。しかも折あしく姫は産気づいてしまったのです。
お供の者は、やむなく付近の木の葉を集めてしとねをつくり、そこを産所として姫は皇子を産みました。しかし時は師走、吹く風は冷たくその寒さと重なる疲労のために、お供の者の懸命な祈りもむなしく、姫も皇子も亡くなられてしまったのです。
あまりの悲しさに、家臣たちは姫と皇子のなきがらを近くに葬り、護良親王の霊とともに末長く祀るため、この無生野に止まって山野を拓き、そこに住ついたということ です。
ひなづる峠は、雛鶴姫が愛する親王の首級を抱き涙ながらに越えた峠を、無生野は宿る家もなく、姫も皇子も短い命を散らせた無常野のことを指して名付けたと伝えられております。     (秋山村)

山梨県連合婦人会 編集・発行(平成元年)「ふるさとやまなしの民話」
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雛鶴峠
弱まったとはいえ政治の実権がまだ鎌倉幕府に握られていた頃、天皇制の政権を取り戻そうと、後醍醐天皇はその子 大塔宮護良親王(おおとうのみやもりなが)を征夷大将軍とし、楠正成や足利尊氏ら多くの朝廷方の味方を得て幕府を倒し、念願の建武の新政が実現したのも束の間、源氏再興を図る足利尊氏は公家政治に不満をもっ武士達を集め後醍醐天皇に叛き、再び内乱となった。護良親王は捕らえられ、鎌倉の土牢に幽閉されていたが、やがて足利氏一族である足利直義のはからいで殺されてしまった。

親王には、雛鶴姫という側室があった。悲報に接し悲嘆にくれる姫であったが、吉野に戻って手厚く葬ろうと、厳しい監視の目をくぐり従臣を使って夫親王の御首(みしるし)を奪い、従臣数人とともに朝廷に味方する甲斐の小山田氏を頼り、官道である鎌倉街道は危ないので、相模川ぞいの脇街道を選び、さらに秋山川沿いに郡内入りを図った。人目をさけての逃避行の苦難がたたったのか、秋山峠に近付いたとき、身ごもっていた姫はにわかに産気づき一夜の宿を求めたが、既に足利氏が実権を握っているとなると、朝廷ゆかりの姫と知ればなおのこと、咎のおよぶことを怖れた無生野(地名)の人々は、姫の一行を助けようとはしなかった。
やむなく一行は無理を承知で望みを次の集落に託し、強行軍で秋山峠をようやく越えたが、小山田氏の居館にあと半日の行程としながら、姫の容体はこれ以上旅を続けられない状態となった。従者の手で作られたにわかづくりの枯草を集めた褥(しとね)で、苦しみながら王子を産むとともに姫は力尽きて亡くなってしまった。
その後、だれも宿を貸すことはおろか手助けさえもしなかった無生野の村を、情けのないところとして無情野と呼ぶようになり、雛鶴姫の越えた峠を雛鶴峠と呼ぶようになった。
姫の産んだ子は、葛城宮綴連王(かつらぎのみやつづれおう)と名付けられたが、七歳で幸せ薄かった生涯を終わった。
村人は、雛鶴姫とその子の霊を慰めるため、命を落とされたところに塚をつくり、神社を建立し、雛鶴神社と名付けて、手厚く祀った。

親王の御首は、従臣に守られて、しばらく隠されていたが、従臣は土着して農民となり、御首は朝日郷の氏神朝日馬場(地名) の石船神社に安置されるようになった。
神社には「護良親王の首」と呼ばれる頭部のミイラが今も保存され、故事を伝えている。

(注) 大塔宮護良親王は「もりよし」が正しいとされるが地元での「もりなが」に従った。

内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
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