0517│猿橋

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ソース場所:山梨県大月市猿橋町猿橋544

●ソース元 :・ 内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版    
●画像撮影  : 2013年10月09日
●データ公開 : 2016年04月01日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

[概要] 大月市猿橋の市街地からちょっと入った所に「猿橋」はある。市街地を走っているときはこのあたりの地形を意識することはなかったが、猿橋のたもとに来て覗き込むと目が眩むような深い渓谷にこの橋がかけられているので驚く。

猿橋  桂川の深い渓谷に架けられた橋。深い渓谷のため通常の橋脚を建て橋を渡すような工法がとれず、両岸より張り出した刎木を使うという特殊な工法がとられた。言い伝えでは、「推古天皇の御代(593-628年)百済からの渡来人 造園師の志羅呼(シラコ)が、猿が互いに体を支えあって橋を作り渡って行ったのをみて、この工法を思いついた。」と言われる。再架橋されるたび同じ工法が守られてきたので、今もこの美しい構造物を見ることが出来る。刎木を重ねた上に橋桁が載せられているのですが、斜めに突き出た刎木などの上に屋根を付けて雨からの腐食を防いでいる。その姿はなかなか雅やかな風情がある。

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猿橋

日本の三奇橋として山口県の錦帯橋、長野県の懸橋とともに、大月市猿橋町の桂川に架かる猿橋が知られている。
長さ三十一メートルもあり、両岸は絶壁の深い谷で、橋脚を立てられないため、刎木(はねぎ)を使うという特殊な工法で架けられた橋である。橋が老朽化して架け替えられでも、同じ工法が守られてきたので、国の名勝として保護されている。

猿橋の地がまだ「ビク島」と呼ばれていた、今から千三百六十年ほど前、推古天皇のころ、百済の国から来た建築の博士に、志羅乎(しらこ)という人がいた。橋架けの名人で、日本各地から請われて手掛けた橋の数は、百八十にも及川んだ。
交通の要所に橋を架け、交通の便を良くすることは、国家の大事業で、難工事を予想されるビク島の桂川架橋には、名人志羅乎が遣わされた。
三河の懸橋、信濃国水内の曲橋、会津の闇川橋など、変わった橋を手掛けてきた志羅乎であったが、断がい絶壁をまたがせる三十メートルを超す材木はなく、橋脚も立てようもない工事には、さすがの名人も手のつけようもなく、思案の毎日でただ日を送るばかりであった。
秋も深まったある日、いつものように志羅乎は絶壁に立って思案していると猿の群が現れた。対岩の崖の上の柿の木には熟れた実が朝日に映えていた。
ぼんやり猿を見ていた志羅乎はやがて奇妙な猿の行動に目を吸いつけられていた。どうやら対岸の柿の実に目をつけたらしい猿の動きは志羅乎の目を奪ったのである。一匹の猿が足をしっかりと木にからませて藤づるをつかむと、次の猿が背に乗って肩車の形になってから、同じフジづるをつかむ。すると、はじめの猿はフジづるを離し、また次の猿が今度はニ匹の猿の背を伝わって肩車の形になってからフジづるをつかむという繰り返しで、順に猿の鎖ができてついに対岸のカキの実をつかんだ光景を目撃した。
志羅乎は天の助けと喜んだ。刎木を順次重ねていけば、支柱はなくても橋は架かるはずだと、刎木を重ねてせり出し、川幅を狭くする理屈で、とうとう橋を完成させた。

猿の鎖にヒントを得て造った橋を、志羅乎は「猿橋」と名付けた。ビク島と呼ばれた村の名も、やがて「猿橋」という地名に変わっていった。猿橋のたもとには、猿王を祀る山王権現があり、猿の架け橋の故事を今に伝えている。

出典:内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版

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