物語
Old Tale
#0542
与一と白サギ
ソース場所:中央市一町畑
●ソース元 :・ 山梨県連合婦人会 編集・発行(平成元年)「ふるさとやまなしの民話」
●画像撮影 : 201年月日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
【概要】 平安時代末期から鎌倉時代にかけ、佐奈田与一(石橋山の戦いで奮戦、討死)、那須与一(壇ノ浦の戦い名声を高めた)、浅利与一(甲斐源氏、富士川の合戦、壇ノ浦の戦いなどで武功を立てる)の三人はそれぞれ弓の名手で「三与一」とも称された。その中でも 浅利与一 は特に遠矢に優れていた。 目もよく強弓の使い手である浅利与一が、はるか遠くの白鷺を射ると一矢で射止めることが出来たのだが、、、。
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新羅三郎から三代下がり、平安から鎌倉時代に変わるころ、甲斐源氏の兄弟は逸見氏、武田氏、安田氏、加賀美氏、浅利氏、河内氏と甲斐のそれぞれの領地を治め、また共に源頼朝の幕下にありました。浅利氏の当主 浅利義遠(浅利与一とも呼ばれた)は弓の名手であり、壇ノ浦の戦いや奥州合戦においても戦功をたてていた。
ある日、浅利与一は家臣らを連れ、大鳥居の山之神社への道を登っていきました。途中、麓の方を眺めると笛吹川の更に先、一丁畑の辺りに白鷺の姿を認め、遠弓でそれを見事射止めました。家臣が獲物を確かめに行くと、それは白鷺ではなく、一人の白い着物を着た老婆でした。つぼ(タニシ)とりをする姿が、餌を探す白鷺の姿に見えてしまったのでした。浅利与一は老婆を手厚く葬り、そこを「姥の宮」と呼び、地域の氏神としたという。
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与一と白サギ
今からおよそ八百年もの昔のお話です。
そのころの甲斐の国は盆地のあちこちに池や沼があって、葦が茂りたくさんのカモや白サギが棲んでいました。それに山にはキジや山どり、そして鹿や熊・猪などがいて、その鳴き声はそれは大そうににぎやかなものでした。
八ツ岳や白根山の頂にはもう、うっすらと雪が降ったある日のことです。御坂の山は木々の葉が色づき、とても鮮かです。そのとき三人の人影が山宮の坂道を、桜峠の方を目ざして登って行くのが見えました。近づいてみると、この地方を治める浅利の殿様の与一様と家来たちでした。一行は立ち止まって今来た方角を見下していました。
道は曲りくねって続き、ふもとには王塚や米倉山が丸くお椀を伏せたように見えます。また浅利の集落をへだてて、笛吹川がゆっくり流れて、その向うに取入れのすんだ一丁畑や花輪あたりの田んぼも点々と広がっていました。
「どうじゃ、こんないい眺めはめったにないぞ」といいながら与一様は松の根っこに腰を下ろしました。そのうち家来の一人が遠くの方を指差して「あれはなんだろう?」と叫びました。一丁畑の田んぽに白くかすかに動くものが見えたからです。与一様はその方向をじーっと見つめていましたが「あれは白サギじゃろうに」といいながら急いで弓を取って矢を射る構えをしました。心優しい与一様とも思われないそのはげしい動作に家来たちは驚きました。「矢は一本でよい老いても仕損じることなどないわ」と的をめがけて”ヒョー”と矢を射放ちました。矢は空を切って一丁畑の田んぽめざしてとんで行きました。
手応えはたしかにあったようです。「早う見て参れ」と与一様は家来に命じていつもの優しい顔に戻りました。しばらくして、家来はまっさおい顔をして戻ってきました。
「殿!大変でございます」と荒々しい声で事のいきさつを告げました。与一様が白サギと思って射たのは実は白い着物を着てツボ取りをしていたおばあさんだったのです。
与一様は体の血が一ぺんに抜けたように茫然とその場に立ちすくんでしまいました。
このことがあって後一丁畑の地内に小さな土まんじゅうの墓が出来、そこには花が飾られ線香の煙が絶えなかったそうです。与一様が哀れな老婆を手厚く葬ったのです。
土地の人々はいつのころからかこの桜峠の近くを弓建(ゆみたて)と呼ぶようになって、小さな石のほこらを作り与一様の心を鎮めたり、おばあさんの冥福も祈ったりしたということです。(豊富村)
山梨県連合婦人会 編集・発行(平成元年)「ふるさとやまなしの民話」
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