


物語
Old Tale
#0586
「富岡」の開拓と地名
ソース場所:北杜市長坂町富岡147 開拓神社
●ソース元 :・ 長坂町教育委員会(平成12年)「長坂のむかし話」 長坂町役場
・ 現地説明板
●画像撮影 : 2016年01月07日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。












[概 要] 「富岡」の開拓と地名 八ヶ岳山麓は冷涼な気候と、火山地帯(歴史時代になっての噴火は記録されていないが)にため表皮は火山性の水はけのよい土壌で覆われている地域が多かった。なので広大な土地の割には集落も少なく、旅人が盗賊やオオカミなどの動物に襲われたり、道中病に倒れそのまま命を落とすようなこともあったという。この辺りも近在の人々ですら通行を嫌うような場所でした。明治の初め、この富岡地区を開拓しようと山梨県の権参事 富岡敬明は開拓事業を始めました。この地への入植者たちを励まし、指導して、入植者たちの苦労と努力もあり、やがて開拓事業も順調に軌道に乗るようになりました。住民たちは、敬明の在任期間が過ぎ彼が山梨を去ってからも、彼に感謝し、地域の名前を彼の名からとり「富岡」としました。
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「富岡」の開拓と地名 (富岡区)
富岡区にある「開拓神社」の境内に建っている「日埜原碑(ひのはらひ)」には、明治初めの富岡地域の様子が次のように刻まれています。
南北一里あまり地勢は起伏がはげしく
草木が欝蒼としげり
雲や霧に覆われ昼なお暗く
人家は一戸もなく
旅人は盗賊や猛獣におそわれた
その頃の富岡のあたりは、日野原と呼ばれ近在の人々もここの通行を嫌ったそうです。
明治の初め、まだ鉄道も通っていない時のこと。この土地の開発に取り組んだ人がいました。
明治5年、佐賀県の士族富岡敬明は山梨県の権参事(今の県副知事)として甲府に着任しました。彼はまず山梨県の産業の振興を図ることを考えました。彼の計画の中の一つに、国有地であった日野原の開発がありました。
明治6年には、政府の認可を得て日野原の開拓に着手し、近くの村々から農民を募って移住させ、まず桑を植え養蚕を盛んにする計画をたてました。
そして明治7年には、今の日野春郵便局の近くに日野春養蚕場をつくり、新しい養蚕技術をひろめようとしました。当時としては、大変モダンな西洋風の二階建ての建物でした。
しかしこの開発の計画も、山林原野の開墾ですから思うようには進みませんでした。
初めは49名の移住希望者がありましたが、厳しい仕事の上に思うような収穫が得られないことから、移住者は次々に離散し、明治9年には12名になってしまいました。
しかし残った農民たちのたゆまぬ努力と、敬明の指導と励ましによって移住も開拓事業も次第に進みました。やがて農民たちは国有地の払い下げをうけ、生活に落ち着きがみられるようになりました。
敬明は、山梨県に在任することわずか3年余りでしたが、その間に残した業績は大変大きく、特に日野原開拓に汗を流した人々にとっては恩人といえる人でした。
明治22年、開拓農民は富岡敬明の功績に感謝して、自分たちの住む地域の名前を「日野」から「富岡」と改めました。現在の富岡区のスタートです。
また翌23年には、開拓神社を建築するとともに、神社の境内に富岡敬明の偉業を讃える「日埜原碑」を建立しました。
「日埜原碑」は、碑が建てられた明治23年頃の様子を次のように述べています。
鬱蒼とした桑は緑を広げ
麦は青々と芽を出している
昔はここに猛獣が出没したが
今では鶏が鳴き
炊飯の煙が立ち上っている
(細田令次)
長坂町教育委員会(平成12年)「長坂のむかし話」 長坂町役場
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由緒沿革
富岡区は 日野原と称した原野であった。
懸令 藤村紫朗は 参事 富岡敬明を
この地に遣わし 開発をして
勧業試験場を設置し
近隣住民に移住を勧誘した。
明治二十三年
ようやく部落形成を見たので
豊受姫命を 守護神として
神社を創建した。
当時の住家は わずか二十戸であった。
・ 鎮座地 富岡一四八番地
・ 境内面積 五四〇坪
・ 開 拓 神 社(境内の由来板より)
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