0520│孝阿塚

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ソース場所:大月市賑岡町岩殿160 真蔵院内 円通寺跡

●ソース元 :・ 「岩殿山の総合研究」岩殿山総合学術調査会                    
       ・ 内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版           
●画像撮影  : 2013年10月09日
●データ公開 : 2016年04月01日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

[概 要]

◎「甲斐叢記」巻9 大森快庵、嘉永元年(1848)
○七社明神:
伊豆、箱根、日光、白山、熊野、蔵王、山王、七座の神を配し祀る神体は木像にて各七尺あり、行基僧正の作なりと云えり。
岩窟の中に柱を樹て、床を張って祠殿とせり。
天井は自然の一片岩なりよりて岩殿といふぞ、岩尖より細流の落る事霤の如し、相伝へて、平城天皇大同元年の鎮座にて、創造の棟札ありといへり。
別當は本山修験常楽院なり、又、大坊院真蔵院の二箇寺ありて、相ともにこれを司祀る、社領十四石余り、山寺号を岩殿山円通寺といひて寺田一町八段余りあり。 行基僧正の刻める観世音を本尊とす。
三重搭あり九輪の下の舛形に銘文あり。承平三年七月廿五日、大檀那孝阿比丘尼とあり。
此尼何人なりけむ詳ならず、搭の南に比丘尼屋敷といふ所あり。
又、古塚あり孝阿塚と云ふ。搭の前より北西へ険しき山路を攀躋は岩殿の社殿に至る。
又、山下の北向に新宮あり、十一面観音を安置す、此地も岩窟の内にお堂を建て、自然の岩天井ありて七社と同じ造構なり。

参考文献: 「岩殿山の総合研究」岩殿山総合学術調査会

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孝阿塚
承平三(九三三)年四月のこと、岩殿山(大月市)の東麓にある円通寺を訪れた一人の尼僧があった。
「お頼み申します」という声に庫裡から出て来た和尚は、僧の姿こそしておれ、いまだかつてみたこともない美しい容姿に、びっくりした。
尼僧は孝阿尼と名のり「弟子にしてほしい」とたのんだが和尚は「これはこれはいずれ名のある高貴な方がご出家なされてこちらへおいでたのでございましょうが、ここは天台宗の修験の寺でござる。僧たりとも女性であるあなたを入山させるわけには参らぬ」といった。
尼僧は「そんな高貴な者ではありません。私は若狭の国小浜の生れで、知らずに人魚の肉を食べてしまい、もう三百歳を越えたのにまだ身は乙女のように若々しく、恥かしながら心も年に似合わぬ想いがわいて、人並みに落ち着いた生活もできず、思い切って尼僧となり、心のすくいを求めているのです。どうかお弟子に加えて下さい。」というのであった。そこで和尚は岩殿山の諸坊のうちの一坊を与えて住わせた。
尼僧が住むようになってから修験者を頼る参詣者も多くなり、円通寺は栄えに栄えた。いきさつを知らない諸民には孝阿尼の若さは修験の力によるものと解されたからであった。
孝阿尼のおかげで財力を得た円通寺では、孝阿尼の希望をいれて三重の塔を建てた。塔がたてられると朝と夕方欠かすことなく庵と三重の塔の間を往復する孝阿尼の姿とともに、「孝阿様と一緒に読経すれば若さにあやかれる」と、一緒に読経し孝阿尼の長寿と美貌にあやかろうとする多勢の人々があった。
百年二百年と経っても孝阿尼は、一向に美しさを衰えさせなかった。美しさが衰えぬまま八百歳の天寿を全うし、世に八百比丘尼(やおびくに)といわれた。八百比丘尼は賑岡(地名)の岩殿山岩窟近くに葬むられた。その塚を孝阿塚と呼んでいる。

内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版

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大月市賑岡町岩殿174
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