物語
Old Tale
#1605
武田氏滅亡時の戦火を生き延びた薬師堂
ソース場所:甲斐市岩森1622-1 光照寺
●ソース元 :・ 甲斐市立図書館 HP より https://kai.library2.city.kai.yamanashi.jp/furusato_02.html
●画像撮影 : 年月日
●データ公開 : 2023年01月10日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
【概要】 偉大な父 武田信玄、そして武田氏を滅亡に導いてしまった息子 武田勝頼 というように対比されがちではありますが、それは平和な江戸時代の家制度から見た時、大切な御家を滅ぼしてしまったダメな息子というバイアスがかかった見方からきているところが多いかもしれません。
織田信長は武田勝頼を決して甘く見てはならないと思っていました。だからこそ甲州攻めに際しては正親町天皇に働きかけ「東夷である武田氏を討て」との勅令を出させ大義名分としたし、織田信忠に甲州征伐を命じていたが、自身の一番の懐刀である黒母衣衆筆頭の 河尻秀隆をつけさせ、途中何度も信忠に対し無理な前進を戒めている。そして追いかけるように甲州入りしている。 武田信玄のライバルと言われた上杉謙信も信長への書状に「勝頼は片手間であしらえるような相手ではない」と忠告している。
織田軍は武田氏を恐れていたからこそ、甲州入りすると武田家臣だけでなく、武田氏に保護されてきた寺社などにも火をかけた。
ちなみに、織田氏滅亡後、甲州入りした徳川家康は、滅んでなお武田氏の力を恐れ、寺社を保護し、武田の家臣達を登用した。政治は国内だけでなく、周辺国とのバランスなど、いかに周辺国に恐れられた領主であってもわずかなパワーバランスの偏りから一気に綻んでくることがある。「三河物語」によると、信長は勝頼の首級と対面し「ひのもと有数の武人でありながら、運が尽きてしまい、こんな姿に」とつぶやいたと言う。
運と云えば、「武田を討つべし」の勅命の出た後、浅間山が噴火したことも大きかったのではないでしょうか。武田氏のような源氏の血をひいた古くからの武士は、雑な言い方をすれば「天皇になれなかった皇子の子孫」、天皇を畏れる事がなければ、自らのアイデンティティすら揺らいでしまう。そんな武田氏に勅命と、まるで滅びのサインのように近くの浅間山が噴火するなど、毎日自分やそれに連なる人たちの命をかけてパワーゲームをしている武士たちにすれば、武田氏は賭けてはダメな方。あっという間に、運が尽きてしまったのは人ならぬ力によるものだったと思う。
そんな不運の武田氏滅亡時の戦火を、すんでのところで逃れた薬師堂があります。
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光照寺薬師堂
光照寺ははじめ団子新居に真言宗寺院として建立され、永正7年(1510)に武田信虎の命により坊沢川(防沢川)へ移ったといわれます。
当時、岩森村内を流れる坊沢川の流域には多くの寺院や宿坊などがあり栄えていたようです。
天正10年(1582)、織田軍が甲斐国へ侵攻した際に坊沢川にあった寺院は焼き払われましたが、消失を免れた光照寺薬師堂は江戸時代はじめに現在の地へ移築されたといわれます。薬師堂の様式は三間四方の宝形造(方形造)で、簡素ですが重厚感のある室町時代後期の特徴をよく現している堂宇であることが判りました。なお、屋根は柿葺形銅板葺ですが、銅板の下には桧皮葺がされ、桧皮を保護するために銅板葺としています。
昭和44年(1969)に復元工事が行われ、文化価値の高い建造物であることから、昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されました。
また、薬師堂内にある正面入母屋・後面切妻造の厨子も薬師堂と同時期に造られたともので、附けたりとして併せて指定されています。
現在、檀家をはじめ地域の人々によって大切に保護されています。
(甲斐市立図書館 HP より)
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