1203│見返り塚(回看塚)

ソース場所:甲斐市宇津谷8731 回看塚(35.709032, 138.470593)
●ソース元 :・ 土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
・ 現地説明板
●画像撮影 : 2017年03月05日
●データ公開 : 2017年03月08日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概要] 穂坂路の傍らには回看塚(見返り塚)と呼ばれるものがある。武田勝頼の家族とその主従が、新府城を捨て敗走する際、後ろを振り返り、新府城の最期の姿を目に焼き付けた場所と云う。 600m程新府寄りの韮崎市上ノ山にも同様な言い伝えの場所が有る。いずれにせよ、穂坂路を敗走してきて、火の手の上がる新府城を目にすることが出来たのはこのエリアが最後だったのでしょう。この辺りから穂坂路は下り、新府城の方向はしばらく見渡せなくなります。武田氏の悲しみを、この地域の人達は我が事のように感じたのでしょう。
見返り塚
穂坂路の傍らにあり、天正壬午の春、武田勝頼が新府落城の時、この塚の上より新府のほうを顧みて、足が進まなかったからかく名づけた。この坂を降ればもう新府は見えなくなるという。 (北巨摩郡誌)
一説には、新府城を見返って悲しんだのは勝頼の夫人であったともいい、今も一基の石碑が立っている。
土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
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◎市指定文化財
回看塚(みかえりづか)
天正十年(一五八二)三月二日、武田軍の信州高遠城は織田軍の猛攻撃により落城した。翌三日早朝、この報を受けた武田勝頼は在城わずか六十八日の新府韮崎城に火を放ち、夫人や子供、わずかな将兵を従えて郡内の岩殿城に向かって逃れた。
言い伝えによると、新府を離れ、塩川を渡り、この地を通り掛ったときに、後ろを振り返り、煙の上がる新府を見て勝頼夫人は
『春がすみ たちいづれども いくたびか
あとをかへして 三日月の空』
と詠み悲しんだという。
この碑は大正十二年九月に、塩崎村の有志によって建立されたものである。
昭和六十一年十一月二十六日に町の文化財に指定された。
平成八年十月 甲斐市教育委員会 (現地説明板より)