1583│華光院(甲府市元紺屋町33)

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ソース場所:華光院 甲府市元紺屋町33

●ソース元 :・ 現地説明板
       ・ 甲府市hp(https://www.city.kofu.yamanashi.jp/kids/mukashi/006.html) 
       ・ 甲斐志料集成3(昭和7-10年)  甲斐志料刊行会 編  p195「裏見寒話」巻之四 府中の橋名 より 
●画像撮影  : 年月日
●データ公開 : 2021年03月15日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

 

[概要]

甲府駅北口を出て北東方面、愛宕山の山腹に華光院がある。武田信虎が荒神堂を建て、堂守に山伏を置いたのがはじまりと言われている。江戸時代には単に「荒神」と呼ばれたりしていた様です。江戸時代に書かれた「裏見寒話」にはこの近くにあった橋について以下のような記載がある。

「くりや橋」  古府八幡より荒神(華光院)へ行く橋。土屋惣藏(武田勝頼に殉じた土屋惣藏昌恒。剛腕で知られ勝頼の最期の時を稼ぐため、狭路で片手に蔦を巻きぶら下がりながら次々と敵を切伏せた「土屋惣藏片手切り」で有名)が、くり矢(遠矢に用いる繰り矢)を射た所だと言う。

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華光院
真言宗京都智積院の末寺で、真如山 華光院 良林寺 といい、荒神堂の別当寺です。由緒によると本尊は 弘法大師 作と伝える三宝荒神で、大永年中(1521-28)に武田信虎が荒神堂を建て、堂守に山伏を置いたのがはじまりと言われています。その後、信玄が現在地へ移し荒神堂と別当寺を建て、紀州の根来寺の弘尊法印を別当寺住職にして、寺を真如山 華光院 良林寺と名付け祈祷所としたといいます。
有名な太子堂は聖徳太子の像を祀ったもので、これは柳沢吉里が大和郡山に転封となったとき、甲府城内より移したものです。
この寺では、現在でも山伏による火渡りなどが行われ、古い伝統を伝えています。    (現地説明板より)
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華光院宮殿
・   指定年月日     平成二十七年三月二十一日
・   指定区分      有形文化財  建造物
・   所 有 者     華光院

一間四方、入母屋造の宮殿[クウデン]です。随所に柳沢氏の家紋の『四つ花菱』の紋が施されています。棟札から享保八年(一七二三)に造られたものであることがわかります。
蟇股[カエルマタ]と格狭間[コウザマ]には、彩色のある彫刻が付けられていて華やかに感じます。また各面の格狭間に施されている植物をあしらった彫刻は、宮殿の左右で表・裏の意匠(阿吽の意匠)となっています。
全体が荘厳に造られ、上質なうえに丁寧な仕上げがなされています。
この宮殿は、柳沢吉里が直接寄進したものといわれています。
・       平成二十八年三月  甲府市教育委員会   (現地説明板)
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華光院 毘沙門堂
・    指定年月日     平成二十七年三月三十一日
・    指定区分      有形文化財  建造物
・    所 有 者     華光院

一間四方の方形造[ホウギョウヅクリ] と呼ばれる形式の毘沙門堂です。
『甲斐国志』には「松平甲斐守ノ所崇信。本ト在城内、取替ノ時 当寺ニ贈レリト云」と記載されており、享保十七年(一七三二)に柳沢吉保が大和郡山へ転封の際、現在地に移築されたものと伝えられています。甲府城に関係した建物の中で、現存する唯一の建物です。
大きな特徴のひとつとしてこの毘沙門堂には、正面だけでなく両側面にも扉が付けられていた痕跡が認められるため、三方に扉がつけられていたことがあげられます。そして禅宗様木鼻[ゼンシュウヨウキバナ]と実肘木[サネヒジキ]に付けられた渦巻彫刻や若葉彫刻は、一八世紀初期の形状で、このことからも建立年代がわかります。
(現在は聖徳太子も祀っているため太子堂と呼ばれています。また奥の祭壇部分は仏像を祀るため後世に改めて作られた部分です)
・             平成二十九年三月  甲府市教育委員会   (現地説明板より)

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5代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)の頃、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が甲斐15万石の領主となりました。

甲斐の国は江戸の西を守る重要な場所だったため、徳川家以外の者が城主となることは本来許されませんでした。しかし、綱吉の特別なはからいによって、武田家の家臣(かしん)を先祖(せんぞ)にもつ吉保が甲府城主となりました。

その時の喜びを吉保は、
「めぐみある 君につかえし 甲斐ありて 雪のふる道 今ぞ踏みみん」
とよんだそうです。

1709年(宝永6年)には、吉保の子・吉里(よしさと)が跡をつぎ、2代で20年間領主をつとめました。

甲府のまちの発展のようすは、
「棟に棟、門に門を並べ、作り並べし有様は、是ぞ甲府の花盛り」
と表現されました。

柳沢氏が領主を務めた20年間で甲府は大きく発展し、領民たちの生活は豊かになりました。1724年(享保9年)、吉里は甲府から大和郡山(やまとこおりやま、今の奈良県大和郡山市)に転封(てんぽう)(※1)となりました。

以後、甲斐の国は江戸幕府(ばくふ)が直接支配することとなり、甲府城は甲府勤番(きんばん)とよばれる幕府の役人により支配されました。

※1転封:国替(くにがえ)、大名の所領を別の場所に移すこと  (甲府市hpより)
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甲府藩
天正十年(1582)の武田氏滅亡後、豊臣時代は隣の徳川領に対するにらみとして、徳川の時代には江戸防衛の要として甲府城は重要視されてきた。
慶安四年(1651)三代将軍家光の三男、徳川綱重が甲斐を拝領し甲府藩が成立。その後、綱重の死去により長男 徳川綱豊(後の六代将軍 徳川家宣)が藩主となった。しかし、宝永元年(1704)跡継ぎのいない五代将軍綱吉が綱豊を後継者としたため、綱豊は徳川家宣と改名し江戸に移ったため、側用人・柳沢吉保が藩主として入城。
宝永六年(1709)五代将軍綱吉の死去により、徳川家宣は六代将軍になり、柳沢吉保は長男吉里に藩主の座を譲り隠居した。
享保九年(1724)、享保の改革により、幕府の財政強化のため、柳沢吉里は大和郡山に移封され、甲府藩は廃藩され幕府による直轄支配、いわゆる甲府勤番支配となった。
これにより、裏見寒話の筆者 野方成方の 享保九年(1724)-宝暦三年(1753)三十年間にわたる甲府勤番士 生活が始まりました。

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