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「YAMANASHI DESIGN ARCHIVES」は、山梨県に伝わる過去の優れた物品の造形や模様、自然から得られる色彩、今に伝わる昔話・伝説を、産業上で使用することのできるデザインソースとしてデジタル化して配信する山梨県のプロジェクトです。

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The “YAMANASHI DESIGN ARCHIVE” is a project in Yamanashi prefecture that distributes the design sources of shapes and patterns of fine goods that have been passed down in Yamanashi prefecture since the past, colors from nature, old tales and legends that have been passed down to the present, and written material that has existed in the region since ancient times through a digital format for industrial use. Please make use of these sources for product development, education and research, service development, etc.

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#1576

舞姫「微妙」の恋

ソース場所:内城館跡・上野原城跡遺構 開発により消滅している。稲荷社に説明板


●ソース元 :・ 現代語訳 吾妻鏡  五味文彦・本郷和人 編  参照   
●画像撮影  : 年月日
●データ公開 : 2021年03月15日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

[概要]  鎌倉時代(二代将軍 源頼家の時代)、上野原の辺りを領していた武勇に名高い 古郡左衛門尉保忠 と、京からやって来た舞姫 微妙 の恋物語と、その後の 古郡左衛門尉保忠 の最期まで、「吾妻鏡」からわかる範囲で紹介します。

 

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舞姫「微妙」の恋(「吾妻鏡」建仁二年の項より)

◎建仁二年(1202)三月八日
御所での蹴鞠会(このところ毎日のように同じメンバーで楽しんでいます)の後、将軍 頼家様 はじめとする蹴鞠のメンバーたちは、比企能員[ヒキ ヨシカズ]の屋敷に誘われていきました。「庭の木々が花盛りなので、ぜひみんなでおいでください」
花を楽しむ宴会の場に、京都から来た「微妙」という舞姫が呼ばれて、美しい舞を披露しました。その美しい舞姿に頼家もたいそう喜びました。
彼女が京都よりはるばる鎌倉の地までやって来たのには辛い事情がありました。
頼家様が微妙の舞に感心していたのを見て、比企能員は事情を話せば舞のご褒美に、頼家様がきっと力になってくれるだろうと、彼女に話すように向けた。辛い事情を思い出し涙にくれる微妙だったが、やっとのことで話し始める。
「建久年間に私の父 右兵衛尉 藤原為成は、でっち上げられた罪で捕らえられ投獄されました。ところが、囚人たちを奥州の夷に奴隷として渡すために、将軍家の雑色係が引き取って連れて行ってしまいました。父もその中に入っていたので、もう取り返すわけにはいかなくなり、母は悲しみに耐えきれず亡くなってしまいました。その時、私は七歳。兄弟も親しい親戚もいず、長年一人ぼっちで生きてきました。やっと大人になった私は舞の修行を積んで、関東の地にやってまいりました。父に会いたい、せめて生死の程を知りたいという一心です。」
舞姫の話を聞き、皆同情の涙を流しました。彼女の父親がどうしているか、すぐさま奥州へ使いが送られました。

◎建仁二年三月十五日
今日の蹴鞠会は一日中続いていました。
その後、尼御台所 政子様が将軍 頼家様の御所へやってきました。舞姫「微妙」を呼び、彼女の芸を堪能しました。先日の話を聞き、彼女の父を慕う思いに感心されていたからです。彼女の舞はとても素晴らしいものでした。
彼女の父親の生死を確かめるために、政子様はすぐに使者を奥州に向かわせ、帰ってきたら政子様の屋敷に来るように命令しました。そして、尼御台所の屋敷に帰るときには、微妙をお供させて帰っていきました。

政子様は微妙をとても可愛がり、源頼家様の御所に行くときは、一緒に連れていき皆の前で舞わせていました。(建仁二年六月二十五日)

◎建仁二年八月五日
舞姫 微妙の父を探すため奥州へ遣わされていた雑色係が帰ってきました。舞姫の父 為成は既に亡くなっていたとのことです。それを聞いた彼女は、号泣し気を失い倒れたそうです。

◎建仁二年八月十五日
晴れ。鶴岡八幡宮の放生会(*ホウジョウエ 殺生を戒めるため魚や鳥などを野に放つ宗教儀式)はいつも通りでした。将軍も御参宮しました。
夜に入り。舞姫 微妙が栄西律師の禅房で出家しました[法名は持蓮となりました]。父の供養をするためです。彼女を可愛がっていた政子様は、心配し、同情し深澤の里あたりに住まいを与えました。そして「いつも私の持仏堂のそばに、私のそばにいるのですよ」と言って聞かせました。
微妙は最近 古郡左衛門尉保忠と密かに恋に落ち、「空では比翼(*伝説上の鳥。雌雄それぞれが目を1眼・翼を1翼しか持たないので常に並んで一体となって飛ぶ)のように、地上では連理の木(*2本の木でありながら枝がつながっていて、木目さえも一体化している)のように、私たちはいつも一緒だよ」と約束したのに、タイミング悪く保忠は領土のある甲斐の国(*古郡郷は新田・上野原・棡原・西原の地区。上野原城に館があった。建暦三年(1213)五月 保忠の時代に北條義時と和田義盛の合戦があり、縁者だったので保忠は和田側につき戦ったが、敗れて波加利の東[初狩のあたりか?]で主だった者は自害して滅亡したという)へ出かけていました。その帰りを待ちきれずに彼女は出家してしまいました。父の死の悲しみに耐えきれなかったのです。

◎建仁二年八月二十四日
夜になって亀谷あたりで騒ぎがありました。
古郡左衛門尉保忠が舞姫 微妙の出家を聞き、甲州から急ぎ戻って来たのですが、彼女は栄西律師の弟子の祖達の房にすでに属し、髪を落としてしまった後と聞き、祖達房へ行き、「(微妙が私の留守の間に勝手に出家なんてするわけない!まさか坊主たちにまるめこまれたのでは?!)髪を落とすときの誓いの言葉を詳しく教えろ!」と迫った。その勢いに恐怖し祖達は思わず御所の門前へと逃げ出しました。祖達に逃げられ保忠は鬱憤も晴れぬまま、目の前の祖達房の従僧たちを殴りつけてしまいました。
この騒ぎを聞きつけ、近隣の者たちが集まっては来ましたが、大ごとではないとすぐに帰っていきました。しかし微妙を可愛がっている政子様は心配して結城七郎朝光を向かわせ、保忠をなだめさせたといいます。

◎建仁二年八月二十七日
今日、古郡左衛門尉保忠は将軍 源頼家様に叱られました。これは、先日、祖達房の従僧を殴ってしまったからです。「僧たちの仕事は、人々に善い行いをさせるのを本意としている。わけもなく髪をおろさせ戒律を授けるわけではない。それなのにこんな理不尽な事をして、とんでもないことだぞ」。政子様が和田義盛や結城朝光らを使ってこのように注意させたようです。

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「吾妻鏡」は個人の日記などではなく、鎌倉幕府がつくった将軍記という構成の公式文書です。家や財産をめぐる小競り合いや、人を蹴落とすための陰謀、後の人たちが自分たちを正当化するための偏った見方などが記載されていることはあっても、歴史上それほど重要な役回りとは思えない者の恋の話が上記のように沢山記載されているのが、少し奇異に感じました。それだけ、微妙が政子から可愛がられていたということかもしれません。
でも、古郡左衛門尉保忠にとってはラッキーです。微妙との出会いによって、幕府の公文書に、彼の微妙への気持ちや、どうしたらよいのかわからないイライラした気持ちが記載され、800年以上先の世界に残せているのですから。
彼の館跡は高速道路建設や宅地開発などで今ではすっかり跡形もなくなってしまいましたが、周りの山河は昔のままでしょう。微妙の出家を聞いた時の彼の目に映った風景を目にして、800年前に心を運ぶことができるでしょう。《 内城館跡〈古郡氏館跡〉 上野原市松留222 ・ 稲荷神社(上野原城跡)〈古郡氏・加藤氏館跡、平城、遺構はないが説明板が立てられている〉 上野原市上野原 》
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和田合戦
古郡左衛門尉保忠については、これから11年後の「和田合戦」(鎌倉時代初期の有力御家人だった和田義盛が、二代執権・北條義時の徴発を受け挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦い敗戦。和田一族も滅亡した。古郡左衛門尉保忠は和田氏の縁戚として和田方についた)において再登場し、そして一族もろとも歴史の舞台上から去っていく。以下に「吾妻鏡」より、戦闘の流れと古郡保忠の活躍のわかる部分を記載する。(一部、甲斐源氏の動きも記載します。)

◎建暦三年五月二日
和田義盛邸近くに住む八田知重が、義盛の屋敷に武装した軍勢が次々と集結していくのを見て、大江広元に報告。広元は屋敷で酒宴の最中だったが一人離れて御所に報告に行く。
三浦義村と弟の胤義は、義盛と共に戦う約束をしていましたが、(義盛とは親戚だが、先祖代々の主人筋に戦いを仕掛けるのはやはりマズいだろう)と義盛との約束を反古にして北條義時の屋敷に義盛の出陣を伝えた。義時は囲碁の最中で「戦いを仕掛けてくることはあっても、まさか今朝ってことはないだろう」と特に驚かず、心を静め、身支度して御所へ向かった。御所でもすぐということはないだろうと防衛準備などはしていませんでしたが、大江広元と北條義時それぞれからの報告を聞き、政子様やお付きの坊門姫たちは北門を出て鶴岡八幡宮に避難しました。
申の刻(午後四時頃)和田義盛は将軍御所を襲撃しました。彼に力を貸すのは跡継ぎの和田常盛、常盛の息子 和田朝盛、義盛の三男 朝夷名義秀、同じく四男 和田義直、五男 和田義重、六男 和田義信、七男 和田秀盛。その他に、土屋大学助義清、古郡左衛門尉保忠、渋谷次郎高重、中山四郎重政、中山太郎行重、土屋先次郎左衛門尉惟平、岡崎左衛門尉実忠、梶原六郎刑部烝朝景、梶原次郎景衡、梶原三郎景盛、梶原七郎景氏、大庭小次郎景兼、深沢三郎景家、大方五郎政直、大方太郎遠政、塩谷三郎惟守以下で、和田義盛とは親戚だったり、友人だったりする人々で、春ごろから徒党を組んできた。
皆、武装蜂起し幕府を囲むようにし、攻め立てます。半面、大江広元邸では相変わらず酒宴中のお客さんがまだいるが、すぐ脇を合戦合図の鏑矢を鳴らしながら、和田軍が過ぎて行く。戦闘に気付いた幕府軍の御家人たちも次々と和田軍に対抗するため参戦していく。
酉の刻(午後六時頃)とうとう反乱軍は、幕府の四面を囲み府内に乱入し、御所に火をかけた。将軍 源実朝は、御所の火災から逃れ源頼朝様の墓所 法華堂へ入りました。
この戦闘の中で特に目覚ましい働きをしたのが和田軍の朝夷名義秀(*この人は正治二年[1200年]九月二日 前の将軍 源頼家が小坪海岸に遊んだとき、見事な水練の技を披露し、潜ってサメを生け捕りにする剛腕の持ち主)でした。次々と見事な合戦ぶりです。武田五郎信光が、若宮大路の米町口で朝夷名義秀と出会い、お互いに睨み付け今にも戦おうした時、信光の息子 悪三郎信忠(*当時、強い事を表すのに悪という字が使われた)がその間に割って入りました。朝夷名義秀は信忠が父に代わって死ぬつもりの健気さに感じ入り、戦わずそのまま走り去ってしまいました。
明け方になり、和田軍は兵や弓矢が足りなくなってきました。疲れた馬に鞭打って由比ガ浜へ引き下がりました。幕府軍は中の下馬橋の防御を固めます、その間も、鎌倉の各所で幕府軍が優位に付け込んで和田軍を攻め立てていました。

◎建暦三年五月三日
小雨の中、和田義盛は兵糧も切れ、馬も疲れ切っていました。寅の刻(午前四時頃)横山時兼が波多野盛通、横山五郎を始めとする数十人の親類縁者を引き連れて腰越浦に駆け付けた時、すでに合戦の最中でした。[横山時兼と和田義盛が北條義時に反逆する相談をした時、今日戦始めの鏑矢を射るように決めていたので今来ました]*(一日早く始まっている、義時に和田軍のことを伝えた時落ち着いていたのは、実は義時側から仕掛けたのかもしれない)*  和田義盛は横山時兼の参加に喜び元気づけられた。
辰の刻(午前八時頃)勝負の行方を見ながら日和見して武蔵大路や稲村ケ崎当たりに陣取っていた、曽我、中村、二宮、河村の連中も源実朝の命令書を見て幕府軍につきました。また、千葉介成胤は一族を引き連れて来ました。
巳の刻(午前十時頃)幕府は近くの国の御家人たちに「近くの者にこの命令を伝えて召して一緒に来るように。和田左衛門、土屋兵衛、横山らが謀反を起し将軍に弓を引いたが、大したことはない、敵は散り散りになったので、急いで打ち取ってくるように。」と命令書をだした。同時に幕府は大軍を由比ガ浜へ投入しました。和田軍も再度御所を攻めようとしましたが、若宮大路や大町大路、名越などの要所を幕府軍の有力御家人たちに押さえられ、戦闘中です。
幕府側の兵に由利中八太郎惟久という弓の腕前に優れた者がいて、若宮大路で和田軍に射かけてきました。その矢には名前が書いてあります。古郡左衛門尉保忠の部下二・三人にこの矢が当たりました。古郡保忠は大変怒って、その矢を引き抜き、逆に射返しました。その矢は北條泰時の鎧の草摺に突き立ったので、由利惟久は和田義盛に味方して「味方の大將軍を射たぞ」と広めたそうです。*(由利惟久は和田合戦に際し幕府北条義時方で活躍しながら、名前入りの矢が泰時に刺さっていたことで、戦後「造意の企」ありとして、由利の所領を没収されている。建暦三年五月五日~七日の項)*
各所での戦闘の様子や、勇気の程、また年少者の勇気に感じ入って攻撃の手を収める場面など当時の名誉ある戦闘の様子が記されています。
土屋大学助義清・古郡左衛門尉保忠・朝夷名三郎義秀が馬首を並べて周りの兵隊たちを蹴散らすので、幕府軍のの兵たちの退散は何遍もありました。なので、北條泰時が頼朝法華堂にいる将軍実朝に使者を遣わし「当軍は多勢で押しているように見えますが、敵はまだまだ倒れそうにありません。もっと何か手を考えるべきではないでしょうか?」と伝えました。実朝は大変驚き、作戦を練ろうと大江広元を呼び、神様への祈願書を書き鶴岡八幡宮へ届けさせました。ちょうどその頃、土屋大学助義清が将軍の近くまで迫ってきていましたが、八幡宮の赤橋の脇で流れ矢にあたり、亡くなりました。その矢は北側(八幡宮側)から飛んできたので、神様が射たのだろうと皆が言いました。
酉の刻(午後六時頃)和田義直[三十七歳]が討たれ、父の和田義盛[六十七歳]は跡継ぎとして期待していた義直の死に絶望し、迷い歩いているときに討取られてしまった。同様に他の息子たち和田義重[三十四歳]、和田義信[二十八歳]、和田秀盛[十五歳]など首謀者七人も討取られてしまった。
和田義盛の子息のうち、朝夷名義秀[三十八]と部下たちは海岸へ出て船で安房国へ向かった。(*その後の消息は不明。五月五日の和田方の戦死者に記名されているので、どこかで死亡しているようだ)その数は五百騎、船は六艘だったという。
和田新左衛門尉常盛〔四十二〕、山内先次郎左衛門尉、岡崎余一左衛門尉実忠、横山右馬允時兼、古郡左衛門尉保忠、和田新兵衛入道朝盛の以上大将軍六人は戦場を離れて逃げてしまいました。
和田軍が負けたので世の中は平和になりました。由比ガ浜では松明を灯し和田軍の首実検です。
将軍の命令で、義時と大江広元は京都へ手紙を出しました。和田軍の人々は親類縁者も多いので日を置かず禍根を断ち切るため、逃れていった者たちを漏らさず討取ってくれるようにという内容です。
合戦参加者たちの多くは、北條泰時邸で宴会です。北條泰時は合戦の前、飲みすぎていざというとき二日酔いで困ったので断酒を誓ったが、戦闘中余りにのどが渇いて葛西六郎から勧められた酒を飲んでしまったので、大酒を控えることにしたそうです。

◎建暦三年五月四日
小雨。古郡左衛門尉兄弟は甲斐国 坂東山 波加利(*初狩?)の東、競石郷二木で自殺しました。和田常盛[四十二歳]と横山時兼[六十二歳]らは、坂東山 償原別所(*不明。坂東山が笹子峠付近と思われるのでその周辺)で自殺しました。(*以降 さらし首にされた数、戦功についての調査)

◎建暦三年五月五日
謀反人の領土を取り上げ、手柄を立てた褒美に充てることにした。
三日の戦闘中、由利中八太郎惟久の矢が匠作泰時を射たことについては、反乱の意思があると思われたが、惟久が「味方に居て、兇徒から防御していたことを北条時房が見ているので、尋ねてから罪の有無を決めるべきでしょう」と弁解した。時房を呼び出し聞くと「惟久は若宮大路で古郡左衛門尉保忠軍に何度も弓を射ていました。敵はその矢を恐れて後退していました。推量するに敵がその矢を射返したのではないでしょうか」と言った。しかしながらまだ許されませんでした。

◎建暦三年五月六日
(*合戦で討たれた者、捕虜になった者、味方の戦死者の記録。横山家に連なる者として古郡兄弟の名が記されている、また甲斐源氏の一つである逸見家の逸見五郎・次郎・太郎らの名も和田方の討たれた者として記載されている。)

◎建暦三年五月七日
主な戦功者への報奨が決まりました。波多野中務丞忠綱については、戦功はあったがそれを計るとき実朝様の前で三浦義村をめくら呼ばわりしたので褒美をしないという罰を受けました。(*北條泰時が射られた件で)由利中八太郎は領地を取り上げられてしまいました。
甲斐国波加利本庄〔武田冠者信光〕*大月市初狩
同波加利新庄〔嶋津左衛門尉忠久〕*大月市初狩 島津忠久は頼朝の落胤との説がある。
同国古郡〔加藤兵衛尉〕*上野原市 加藤兵衛尉景長は加藤景廉の孫。加藤氏は甲斐武田家の滅亡までこの地を支配していた。
同国岩間〔伊賀次郎兵衛尉〕*市川三郷町岩間?
同国福地〔鎌田兵衛尉為清〕*大月市富浜町鳥沢 鳥沢の諏訪犬鳴神社が鎌田氏館跡
同国井上〔大須賀四郎胤信〕*笛吹市御坂町井之上?
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陸奥国由利郡〔大二局〕*大二局 阿波局の同僚。加賀美遠光の娘。この所領は養子である甥の大井朝光に譲ったとされる。
金窪〔左衛門尉行親〕

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