物語
Old Tale
#0360
鵜飼のお話(笛吹市石和町市部1016 遠妙寺)
ソース場所:笛吹市石和町市部1016 遠妙寺
●ソース元 :・ 御硯水の説明板
・ 甲斐志料集成3(昭和7-10年) 甲斐志料刊行会 編 (甲斐志料刊行会 編『甲斐志料集成』3,甲斐志料刊行会,昭和7至10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1240842 P158 鵜飼山遠妙寺 鵜飼のお話 の項)
●画像撮影 : 2015年12月17日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概 要] 笛吹市遠妙寺に伝わる鵜飼と日蓮上人のお話。江戸時代にはこのお話をもとに能・歌舞伎・浄瑠璃などの演目が演じられたり、浮世絵にもなったりと、有名なお話でした。
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旧蹟 「御硯水」
元暦の昔 平家没落の頃 平家の公達(大納言時忠と云われる)が左遷され 石和の里に蟄居していた時 観音寺々領を流れる鵜飼川(石和川)の禁漁区に於いて 鵜を放ち 漁をしたため里人の怒りを買い簀巻きの刑に処せられ〝岩落〟の水底に沈められた。後その怨念は、幽魂となって縷々里人を悩ましていた。
鵜飼山縁起に因ると「文永十一年夏の頃 身延の草庵を発たれた日蓮代聖人が日朗・日向両上人を伴い会一円を御巡化の砌り 石和の里 鬼苦ヶ島(菊ヶ嶋)の辻堂に休息し給いはしなくも彼の亡霊に接し、これを済度し給わんと思し召され日朗菩薩は河原の小石を集め日向上人は墨を硯り大上人自ら筆をとらせ給いて法華経一部八巻二十八品六万九千三百八十余文字を三日三夜の亘り一字一石の経石に書写して鵜飼川岩落の水底に沈め川施餓鬼供養を修し涸れの亡霊を成仏得脱せしめ給うた」とある。彼の硯の水が経の「お硯水」または「お硯井戸」であり大聖人が、錫杖によって穿たれた井戸と伝えられている。住古は清冽玲瓏滾々としていたが明治四十年の大洪水により埋没 その後 浚渫補修し今日に至る。因って この硯水を霊水となし題目を誦すれば忽ちその勢いを増して迸ると又醸造に用うれば芳醇四海にあまねく銘酒になると云う。故にこの水を汲み符水となすもの多しと伝う。
〝岩落〟 現在地東方百米の地に相生の老杉あり、その西側 元鵜飼川の本流に岩石そばだち水が衝り滝の如くに落ちたので 岩落と称した。 鵜飼山 遠妙寺
御硯水の説明板 より
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鵜飼山 遠妙寺 石和 日蓮宗
「鵜飼のお話」
元暦年中、平家放流の際、平大納言時忠は甲州に配流される。菊嶋岩落まで南北十八町は法成山観音寺という禅寺の領地で、厳しく殺生を禁じていたが、時忠は心が悪かったので殺生に身をゆだね、この禁漁の地で毎夜 鵜を放ったり、網を下したりした。ついには、文治年中、岩落の底に沈められた。その最後の悪念に、日夜苦しむこととなった。
そんな折、文永の頃、日蓮上人が身延よりこの地へ来た。日も暮れ、雨も激しくなり、一夜の宿を頼むも断られ、ついに菊嶋まで来て、一軒の小屋にたどり着いた。
小屋の主は80余りの老漁師。これが時忠の霊であった。
日蓮は一晩中殺生を教化して済度しようとしたが、ついに老漁師の顔面が鬼のようになり、こつぜんと姿を消し、小屋も消え去ってしまった。日蓮は菊嶋の草むらの中で一夜を明かし、身延へ帰った。
翌春、日郎、日向を連れ、この地に戻って来た。そして再び老漁師の霊に逢い、三昼夜法華経を唱え、一石に一字づつ法華経を書き写した。こうして、老漁師の亡霊は済度され、罪障も消滅した。
この時の法華経を書き写した小石は、鵜飼寺に残っている。また、鵜飼翁の蓑、時忠の像もある。
ある人曰く、平時忠を甲州に配流と言うのは少しおかしい。なぜなら時忠は平の重族なので、配所で厳重に外出を禁ずるならともかく、鵜飼をさせたり、また重罪の人を、その筋へ伺うこともせず死刑にするというのもおかしい。 (「裏見寒話」 巻之二 仏閣の項より)
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・ 甲斐志料集成3(昭和7-10年) 甲斐志料刊行会 編
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「裏見寒話」とは、野田成方が甲府勤番士として在任していた享保九年~宝暦三年(1724-1753年)までの30年間に見聞きしたり、調べた甲斐の国の地理、風俗、言い伝えなどをまとめたものです。只々聞いたものを記すだけでなく、良く考察されており、当時の様子や、一般の人達にとって常識だった歴史上の事柄(歌舞伎や浄瑠璃などで演じられ、当時の庶民に良く知られていいた)を知ることが出来る。
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江戸時代、「鵜飼」は歌舞伎、浄瑠璃、能などで演じられ、また浮世絵にもなったため庶民にもよく知られ人気のあるお話だった。ただ、「裏見寒話」でもこのお話はちょっと違うのでは?とされたが、、、
平時忠は壇ノ浦の戦いの後、能登へ配流されている。この戦いでは時忠は処刑されてもおかしくはなかったが、三種の神器のうち「神鏡」を守ったとして死罪は免れた。また直後、娘を源義経に嫁がせ庇護を得た。そして文治五年(1189年)能登の配所にて没したと言われる。
時忠は「平家にあらずんば人にあらず」(実際にはそれほど大きい意味ではなく、「平家でないと出世も難しいよね」位の発言だったという説もあるようですが)という発言で有名なうえ、能登の前にも2度の配流にあっているが、その度よみがえっては、配流以前より更に権力の高みに登って行ったしぶとさがこのお話の主人公たりえたのかもしれません。
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この時期、甲斐源氏は鎌倉幕府の中枢近くにいたので、捕らえられたりして鎌倉に運ばれる前の平氏が一時留め置かれたり、処刑のため甲州入りしていたりと、平氏の重臣やその家臣などが甲斐の国内には入っていたのではないでしょうか。老鵜飼は平時忠ではないにしろ、平氏ゆかり(家臣どころかもっと身分の低い、最後まで忠孝を尽くした小者かもしれませんが)の者で、捕らわれるか、一井で泥水をすする主を少しでも助けたいと思い、禁漁の地で漁をし罰せられた。その無念が日蓮伝説と出会いこの様なお話になったのかもしれません。
歌舞伎や浄瑠璃が人気を呼んでいた江戸時代、庶民は体制に対する不満を直接口にすることは出来ませんでした。昔話を借りて「こんなひどいお偉いさんがいた」とか「こんなひどい目に遭ったひとがいたけど、立場逆転でスッキリだ」などと痛快に思ったりしました。案外劇作者たちは鵜飼が時忠でないことも織り込み済みで、「権力の上の方にいた人の失脚」「かわいそうな忠孝者」「仏の力を持つヒーロー」の話を書いたのかもしれません。そういった意味では、「鵜飼の話に時忠が出てくるがそれはちょっと違うのでは」と書いた「裏見寒話」の作者は少しばかりヤボだったのか、ヤボを承知で真実を残そうとした学究肌の人だったのか。「裏見寒話」を通して読んでみると、ヤボを承知で書いたように思う。「鵜飼」は長年にわたって人気の番組だったので、本当に時忠だったと思う庶民たちが増えていたのでしょう、古今の書籍に親しみ、「裏見寒話」におとぎ話ではない甲斐の事実を載せようと努力していた野田成方は、甲斐の地元が舞台になっている人気劇を誇らしく思う人々を否定することなく、ちょっとヤボを装い「なんか違う気がする、、」としたように思います。
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