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「YAMANASHI DESIGN ARCHIVES」は、山梨県に伝わる過去の優れた物品の造形や模様、自然から得られる色彩、今に伝わる昔話・伝説を、産業上で使用することのできるデザインソースとしてデジタル化して配信する山梨県のプロジェクトです。

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The “YAMANASHI DESIGN ARCHIVE” is a project in Yamanashi prefecture that distributes the design sources of shapes and patterns of fine goods that have been passed down in Yamanashi prefecture since the past, colors from nature, old tales and legends that have been passed down to the present, and written material that has existed in the region since ancient times through a digital format for industrial use. Please make use of these sources for product development, education and research, service development, etc.

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Old Tale

#1585

加藤光泰の墓(甲斐善光寺 甲府市善光寺三丁目 本堂裏手)

ソース場所:甲斐善光寺 甲府市善光寺三丁目


●ソース元 :・ 現代語訳 吾妻鏡  五味文彦・本郷和人 編  参照 
       ・ 甲斐善光寺HPより  http://www.kai-zenkoji.or.jp/cultural.htm
       ・ データベース「えひめの記憶」愛媛県史 近世上 昭和61年1月31日発行
       ・ 加藤護一編国立国会図書館デジタルコレクション 「遠山氏(1)」 『恵那郡史』 恵那郡教育会、1926年  
●画像撮影  : 年月日
●データ公開 : 2021年07月12日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

【概要】武田氏が滅んだ後の混沌とした甲斐国を治め、わずか二年半程の在任期間ではありましたが国の再興や甲府城築城などに手腕を振るい、異国の地にて最期をむかえた加藤光泰の墓が甲斐善光寺の一画にある。彼は。後世では地味な武将とされスポットライトは当たっていませんが、秀吉から信頼された古くからの豊臣秀吉配下の武将。

 

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加藤光泰の墓 一基 (甲府市指定文化財 昭和62年3月31日指定)
甲府市文化財史跡指定。金堂東北の墓地の一画にある。加藤光泰(1537-1593)は、豊臣秀吉配下の戦国武将。甲斐二十四万石、甲府城主に任じられ、大本願智慶上人への帰依が深かった。文禄2年8月29日釜山付近の西生浦で戦病死し、遺骨を当山に埋葬した。加藤光泰の子孫は、のち伊予大洲城主となった。  (甲斐善光寺HPより  http://www.kai-zenkoji.or.jp/cultural.html)

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加藤光泰は天文六年(1537)、藤原鎌足 の十二代孫 加藤重光 からさらに二十一代下がった 加藤景泰 の嫡男として美濃国厚見郡今泉村橋詰の庄に生まれた。
稲葉山城(岐阜城)の城主 斎藤竜興(斎藤道三の孫)に仕えた。しかし、当時の美濃国は、織田信長の尾張、北近江は(竜興の母方の里ではあったが、信長がお市の方を嫁がせていて尾張と同盟を結んでいた)浅井氏と、敵に囲まれた状況でした。父である斎藤義龍が急死し、竜興が家督を継いだのは永禄四年(1561)まだ数えで十四歳の時でした。城主としての経験も薄く、頼れる後ろ盾もないので、徐々に斎藤氏の体制が揺らいでいき、永禄十年(1567)ついに稲葉山城が陥落してしまいます。
とは言え、この様な強敵に囲まれながらも、六年間稲葉山城が守れたのも、美濃衆の中に優れた人材がいた為。織田信長も彼らの活躍には目を止めていて、加藤光泰も木下藤吉郎秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣となることが許された。
以降、数々の功を立て出世していき、天正十年(1582)の「山崎での戦い」では、狭い地での戦いで、長引けば多勢である豊臣軍が不利になるような状況でしたが、明智光秀の本隊に襲い掛かり、総崩れにさせるきっかけを作った。その後も、次々と重要な職についていき、天正十八年(1590)北条氏没落後、甲斐国二十四万石が与えられるという大抜擢を受けました。
この当時、関東八か国を領する徳川家康を抑える役目も甲斐国にはあり、豊臣側の最重要拠点でした。
光泰は天正二十年(1592)まで、甲斐の寺社領の安堵や寄進、諸役免除などを(アーカイブNo.1586「金峰山洞雲寺と加藤光泰」で記した洞雲寺の再興もこの時行われた)行い、人心を掌握し、太閤検地も行った。また、要害城の破損修復(甲斐志料集成3 p124「裏見寒話」舊城 の項より)の他、一条小山に甲府城の築城を本格的に開始している。つまり、戦乱の地であった甲斐の国を、安定した地に立て直す仕事をしていた。
文禄元年(改元が年末近くだったので天正二十年 1592年)文禄の役が起こると自ら願い出て、宇喜多秀家を総大将とする七番隊に奉行衆として出陣した。
朝鮮の首都、漢城府は開戦からわずか21日で陥落したが、戦闘が遼東半島にまで及ぶことを危うんだ明の援軍が出兵してきてから、戦線は膠着し、豊臣軍、朝鮮軍、明軍ともに大きな損害を被ることになった。
文禄二年(1593)、一時休戦となり、九月に加藤光泰は帰国予定となったが、八月二十六日突然発病し、二十九日 西平浦(韓国釜山)の陣中で病死した。享年五十七歳でした。光泰は勇猛であっただけでなく、当時の武将としては稀な篤学の人で、文武両道に長けた人であったという。遺骸は国元である甲斐國に送られ、甲斐善光寺に葬られた。
加藤氏は、光泰の嫡男 貞泰 が若年(甲斐国の経営は留守がちな光泰に代わり、貞泰、実弟の光政、養子の光吉らが務めてはいたが)である事を理由に、美濃国黒野(岐阜市黒野)四万石に国替えされた。その後、「関ヶ原の戦い」の最中、石田三成の西軍から寝返り徳川方につき、また、大坂の陣では徳川方として戦功を立て、元和三年(1617)伊予大洲藩に移封となった。以降、明治四年の廃藩置県により大洲藩が廃されるまで、加藤氏は大洲藩を領した。坂本龍馬が運用した蒸気船「いろは丸」は大洲藩の所有でした。加藤氏は代々好学で、武道や仁愛節義を重んじた気風だったようで、小藩ながら蒸気船の必要性を感じていた様です。

このデザインソースに関連する場所

日本、〒400-0806 山梨県甲府市善光寺3丁目36−1

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