1589│小山城・天正壬午の乱を知る城(笛吹市八代町高家)

Top > Old Tale > 1589│小山城・天正壬午の乱を知る城(笛吹市八代町高家)

ソース場所:笛吹市八代町高家

●ソース元 :・ 現地説明板
       ・ 笛吹市HP   
●画像撮影  : 年月日
●データ公開 : 2021年08月05日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

 

【概要】

笛吹市八代町高家にある「高家小山城公園」は、小山城跡を整備した公園です。小山城は室町時代には築城されていたようですが、その後廃城となっていました。武田氏が滅びた直後に織田氏も滅び、日本国内は天正壬午の乱と呼ばれる争乱状態になりました。甲斐国も徳川と北条による陣取り合戦の場になりました。小山城は平城ではありましたが若彦路、鎌倉街道にも近く、戦略上重要とされ徳川が修築し、北条軍の動向を監視した場所だったそうです。実戦対応の城の様子が、良い状態で残っている空堀や土塁などの遺構からわかる城址です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
小山城
小山城跡は八代町高家にある東西約120m、南北約130mの規模を誇る平城である。築城時期は不明で、「甲斐国志」によると宝徳二年(1450)には穴山伊予守が在城し、甲斐守護・武田信重と敵対したと伝えられており、少なくとも室町時代には存在していたことがわかっている。     (笛吹市hpより)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
小山城
小山城は浅川扇状地北端の小丘を利用して構築された面積12,046㎡の規模を有する武田時代の城である。
城の南辺の土塁は一部削平されているが、他は良く遺されている。土塁は底辺が約15メートル、高さ3~5メートルの規模を有する。土塁北隅の平坦部(東屋がある)は櫓台と考えられ、礎石が現存している。虎口が東にあり、幅約10メートルで脇に石組が遺存している。堀は、北辺は天川[テガワ]の急崖となり、東辺で約8メートル西南辺で約15メートルの幅である。また、土塁北10メートルのところに物見塚といわれる通称゛ごんばち塚゛がある。
宝徳2年(1450)穴山伊豆守が居住しており、小石和の武田信重館を攻めている。
永正の頃(1504年)穴山伊予守信永が住し、大永3年(1523)3月に鳥坂峠を越えて侵入してきた南部下野守と花鳥山で戦ったあと小山城で防戦したが、利あらず二ノ宮常楽寺へ落ちた。
城は南部氏に守られていたが、天文17年(1548)武田晴信の為罪を得て城を捨て廃城となった。天正10年(1582)甲斐国争乱の時、御坂城の北条勢に対時する徳川家康は、鳥居彦右衛門にこの城を修築させ、騎馬130、雑兵600人をもって守らせたと伝えられる。
(現地案内板より)

このデザインソースに関連する場所


笛吹市八代町高家 小山城
ページトップ