物語
Old Tale
#0382
長者屋敷
ソース場所:西桂町下暮地1162 仏眼寺
●ソース元 :・ 西桂町 遺跡・文化財マップ
・ 山梨県連合婦人会 編集・発行(平成元年)「ふるさとやまなしの民話」
・ 内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
・ 現地説明板
●画像撮影 : 2015年07月13日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概 要] 昔、今の西桂町下暮地の辺りに護満長者と呼ばれる大金持ちがいたという。不幸や、長者の病などにより、家は絶え、建物も水害で流れてしまったという。ただ、町のあちこちに護満長者にゆかりの仏像、屋敷跡、不幸に見舞われた奉公人を供養する石碑(1180 思い川)などが見られる。
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護満長者
昔、下暮地に護満長者と呼ばれる金持ちが住んでいた。家の南に神祠を建て産神とし、西北に庵室を構え仏様を安置していました。(その庵室が今の仏眼寺で百数十年ほど前に現在の場所に移ったといわれている・・・甲斐国志)その後不幸が続き家は貧しくなり、使用人も居なくなり、長者は不治の病に罹り一室に閉じこもってしまった。長者には美しい一人の娘が居り、それはそれは気立ての優しい娘であった。 娘は親の病を悲み、神仏に祈願し病が治る様一心不乱に祈った。娘にこのような苦労を懸けるのは自分がこの世にあるからだと嘆き、腹を切って死んでしまった。 娘は嘆き悲しみ尼となって、親の菩提を弔うために、諸国巡礼の旅に出た。その後、家は無住となり大雨による俵石川の氾濫で流されてしまったという。今も伝説を物語るかのように巨石の石組みが下暮地城屋敷に残っている。
常照山仏眼寺
宝鏡寺末 開山明応元年(1492)宗睦和尚 元は寺野に護満長者の持仏堂として建てられたと伝えられている。長者の家運は傾き、いつの頃か大水で屋敷は流され、寺も荒れるにまかせていたが、元和年間(1615~24)了悲和尚の時現在地に移し再興した。本尊は阿弥陀如来像で脇に観音菩薩と勢至菩薩を従える阿弥陀三尊である。
西桂町 遺跡・文化財マップより
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昔、むかしの話
昔、三ツ峠のふもとの下暮地字城屋敷というところに、たいそう大金持が美しい娘と住んでいたと言います。三ツ峠のきゃあが尾根(貝が尾根)というところからとれるきゃあせき(貝石)が、都のお殿様たちに好まれ、わざわざ家来を買いによこすほどでした。この貝石を取りしまっていたのが大金持でした。
やがてその貝石がなくなるころ、どこからともなく飛んできた蛾が、山まゆをつくって美しい絹が織れましたから、またまた大金持の財産はふえ、たくさんある倉に納まらないほどでした。大金持の姫様は美しいばかりでなく、心ばえのやさしいむすめでしたから、それはそれはみんなに愛されていました。ところがある日、大金持が悪い病気にかかり、一つの倉にとじこもってしまいました。 娘は神仏に父親の病気をなおしてくれるように、毎日毎日祈ってくらしました。 しかし家来たちは、病人をきらって一人去り、二人去りして、とうとう姫は一人になってしまいました。
姫は一心に、冬でも水ごりをしたり、ただただ病のなおるよう祈りました。
その姫の苦労ををみて、大金持はとうとう腹を切って死んでしまいました。姫はなげき、悲しみ、父親の菩提をとむらうために、諸国修行の旅に出ました。そして後には、信州善光寺に入り、尼さんとなってい一生を仏様に仕えてくらしたと言います。
今はその城屋敷の跡には、何ものこっていません。 (西桂町)
山梨県連合婦人会 編集・発行(平成元年)「ふるさとやまなしの民話」
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護満長者
三ッ峠のふもと、西桂町の下暮地に伝わる話である。三ッ峠は勿論御坂山塊一帯は、大昔海の底であったらしく、いまでもくじらの化石が出たり貝の化石を含んだ岩が発見されたりするが、化石を含んでみがき上げられた三ツ峠の貝石といったら、大変美しく床の間や飾り棚に置く鑑賞石として、遠く都まで運ばれるほど診重された石であった。
護満長者はこの石の産出の全てを取りしきっていたので、下暮地はもちろんその界わいの村きっての大金持ちで、家の南には神社を建て、西北には庵室を造って仏像を安置するほどで、豪壮な屋敷を構えていた。盛者必衰といって、いくらお金持ちでもなかなか三代とは続かないというのに、よく資産を守り満足なく暮らしをしながら栄えていたので、いつのころからか護満長者と呼ばれるようになった。
長者の家にはたくさんの人が働いていたが、家族は娘一人、だけであったので、長者のかわいがりようは一通りではなかった。娘は気立てよく、美しかったが、何よりも親思いで親の面倒をよくみた。
使用人たちも、われこそは婿になろうと、せっせと働いたし、娘に近づこうともした。ところが長者は都から運ばれてきた悪い病気に冒されてしまった。
遠くから医者が呼ばれたり、神宮僧侶はもとより山伏までもたのんで加持祈とうが行われたが、いっこうによくならず、さしもの財産もみるみる減っていった。昔は病に対する恐怖心は大変なものであったから、財産がなくなり、 病気は人にうつると分かると、大勢いた使用人もあっという間にいなくなり、長者と娘だけになってしまった。
人に病をうつしではならないと、倉に閉じこもり、一歩も外に出ない長者であったが、食事が次第に悪くなり、衣服などを差し入れる者が、娘だけになったのをみて、家の没落を知った。娘しかいなくなったと悟って倉を出た長者は、かわいい娘が神仏に祈願し、水垢離をとる姿を見ると、不びんでならなかった。長者は決心して割腹して果てた。
親思いの娘は、父の死を悲しんだ。悪病で死んだとなると、弔問者もなく、供養するのは自分一人しかないと、娘は四十九日の間、庵にこもり、父の霊の供養をしたあと、豊かな黒髪を落とし、尼僧となって、無縁の仏を供養することこそ、やがて無縁となる父の供養であり、仏の道にかなうものと悟って、諸国遍歴の旅に出、一生を仏に仕えて終わったという。庵は仏眼寺に移されたが、広壮な家は俵石(地名)から流れ出た大水のため押し流され、今はその跡もない。
内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
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曹洞宗 常照山 仏眼寺[ぶつげんじ]
@ 本尊 三尊 阿弥陀如来
『甲斐国誌』(一八一四)仏寺部に「常照山仏眼寺 下暮地村 曹洞宗宝鏡寺末 本尊ハ三尊ノ弥陀 開山ハ 太補宗睦和尚 明応元年(一四九二)二月十五日寂ス 古[いにしえ]境内ハ此レヨリ北寺野ニアリ元和中(一六一五~一六二四)慈心了悲和尚ノ時 今ノ地ニ移ル 相伝フ古ヘ此ノ地ニ ゴマンノ長者ト云フ者アリ家ノ西北ニ庵室ヲ創造シ仏ヲ安置シケル後 長者ガ家滅ビテ宝鏡寺ニ属シ一刹[さつ]トナルト云フ」とある。
寺記によると、文明年間(一四六九~一四八七)に護満[ごまん]長者屋敷の北西に自仏堂を創建し、仏源庵と称したという。班室長虎によって天台宗の寺とされたが、天文十三年(一五四四)大雨のため諸堂宇[どうう]並びに本尊まで流没した。寛永三年(一六二六)融山宗祝僧がきて現在地へ宇堂が建設され宝鏡寺末の曹洞宗となった(その後 谷村 長生寺へ移住)。貞享[じょうきょう]二年(一六八五)大円覚舟和尚 住職に際し宝鏡寺四世の 太蒲宗睦 を勧請して法地開山とし、二世に列した。
明治四十一年に消失再建、その後 本堂、庫裏[くり]が昭和五十六年に新築された。
寺の正面から前の町道を横切って下った、かつての表参道にある万霊塔の傍らに明和三年(一七六六)の銘がある地蔵菩薩像が祀られている。
ーーーーーーーーー平成二十四年三月 西桂町教育委員会・西桂町文化財保護審議会 (境内説明板より)
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都留市夏狩にある長慶寺の本尊「薬師如来」は、この護満長者の建てた薬師堂に安置されていたが、長者の家が絶えてしまい薬師堂も荒れ果てていたのが、水害で流され長慶寺の近くに薬師如来像が流れ着いたものだと伝えられている。(1212 「夏狩薬師」参照)
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