物語
Old Tale
#1606
黄梅院
ソース場所:甲斐市龍地 黄梅院跡
●ソース元 :・ 現地説明板
・ 甲斐市立図書館hp https://kai.library2.city.kai.yamanashi.jp/furusato_08.html
●画像撮影 : 年月日
●データ公開 : 2021年03月15日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
【概要】 武家の社会では、古くから周辺諸国や、強国とのパワーバランスをとるため、息子を人質として他家へ差し出したり、娘や姉妹達を相手国に嫁がせたりしていました。当時は、正室だけでなく、継室など複数の妻をもつ事も多く(中にはたった一人の妻と生涯を共にした武将もいましたが)、子宝に恵まれ何十人もの子供たちがいた武将もいました。しかし、子供が多いからと言って、子らに対する愛情が薄かったわけではありません。自身と家族・親族たち、そして家臣やその家族、領民たち、そういう多くの命を守るため、愛する家族を他家に渡しました。渡した先と、ずっと平和に仲が取り持てたらと祈っていた事でしょう。
相模國の北条氏と、駿河國の今川氏、そして甲斐國の武田氏が堅固な結びつきをするよう三国同盟が結ばれました。この時、その関係をより堅固なものにするため武田信玄の長女が、北条氏康の嫡男 氏政に嫁ぐことになりました。戦国の世に、この三国同盟は破棄されてしまうのですが、甲斐市に氏政に嫁いだ信玄の娘のその後にまつわる史跡があります。
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黄梅院
黄梅院は、武田信玄と正室三条夫人の長女として天文12年(1543)に生まれました。(名不詳。法名「黄梅院殿水鳳瑞尼」或いは「黄梅院殿春林宗芳大禅定尼」)
当時、信玄は信濃国(長野県)へ侵攻していたため、背後から攻め込まれないよう隣国の今川義元(駿河国:静岡県)・北条氏康(相模国:神奈川県)との間に三国同盟を結び、同盟をより強くするために北条氏康の嫡男氏政に長女黄梅院を嫁がせることとし、天文22年(1553)に婚約が成立し、翌年、天文23年(1554)に12歳の若さで氏政の正室として輿入れしました。
信玄は黄梅院に深い愛情があったようで、北条家へ輿入れの際に供として1万人もの人数を伴わせるほか、黄梅院が病気や懐妊した際には富士御室浅間神社(富士河口湖町)へ平癒・安産祈願をおこなっています。
結婚後、夫婦間は良好だったようで、嫡男北条氏直や氏房など4人の子供にも恵まれ幸せな歳月を過ごしていましたが、永禄8年(1565)に今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれると、永禄11年(1568)信玄が今川領内に侵攻したことにより三国の同盟は破棄となりました。今川家に娘を嫁がせていた北条氏康はその報復として黄梅院と氏政とを離縁させ、黄梅院は甲府へ返されてしまいました。
黄梅院はその心労のせいか翌永禄12年(1569)27歳の若さで亡くなってしまいます。娘の死を悲しんだ信玄は、大泉寺(甲府市)に南湖郷(南アルプス市)領を寄進し、長女のために寺院を建立し菩提を弔うよう命じ、甲斐市龍地に黄梅院が建立されました。
また、武田・北条両氏が再び同盟を結んだときには、氏政は亡くなった夫人のために元亀2年(1571)北条氏の菩提寺であった早雲寺境内に黄梅院を建立させたといわれます。黄梅院は明治時代に廃寺となり往時を偲ぶことはできませんが、その跡に五輪塔や石造物があり、黄梅院跡は甲斐市の史跡として指定されています。
※黄梅院の本尊であったと伝えられている子安地蔵(市指定文化財)は黄梅院跡の近くにある地蔵院に安置されています。
・ (甲斐市立図書館 hp より https://kai.library2.city.kai.yamanashi.jp/furusato_08.html)
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黄梅院跡[オウバイインアト]
(甲斐市指定史跡 ・所 在 地: 甲斐市龍地六二八八
・ ・指定年月日: 平成十年二月二七日)
黄梅院は二七歳で亡くなった武田信玄の娘(名不詳、法名 「黄梅院殿水鳳瑞尼」或いは「黄梅院殿春林宗芳大禅定尼」)の供養のため建立された寺院といわれています。
時は天文十二年(一五四三)に信玄と三条夫人の長女として生まれ、信玄が北条氏康(相模国)、今川義元(駿河國)と同盟(いわゆる三国同盟)を結んだことにより、同二十三年(一五五四)には北条氏康の嫡男 氏政に嫁ぎました。
しかし、永禄十一年(一五六八)に信玄が駿河へ侵攻すると、氏政と離縁させられ、同十二年(一五六九)六月十七日に亡くなったといわれています。
黄梅院の正確な建立年代は不明ですが、元亀元年(一五七〇)には信玄が、娘の供養のため、南湖(南アルプス市)の黄梅院知行地[チギョウチ]を本寺にあたる甲府の大泉寺へ寄進し、塔頭[タッチュウ]の建立を命じています。
また、寺院の規模については定かではありませんが、慶応四年(一八六八)七月当時、本堂(庫裡[クリ]含む)と東司[トウス]があったと記録されています。(「甲斐国社記・寺記」)
明治初期には廃寺となり、現在は付近から集められた五輪塔[ゴリントウ]など石造物が建てられています。
* 知行地 : 大名が俸禄(給与)として家臣や社寺へ分け与えた土地のこと。
* 塔 頭 : 禅寺で、弟子が亡き高僧の仁徳を偲んで塔(墓)の頭(ほとり)に建てた宿舎。大寺院の敷地内にある小寺院や別坊。脇寺。
* 東 司 : 禅寺で、便所の通称。
・ 平成二十二年二月二五日 甲斐市教育委員会(現地説明板より)
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最近の研究では、黄梅院は三国同盟破綻後も北条氏の女性として小田原城に暮らし、そこで若くして亡くなった。黄梅院に仕えていた女性が、小田原での一周忌を終え帰国し黄梅院の最期を報告。それを聞いた信玄が彼女の菩提を弔うため、ここに寺院を建立した。 というように資料が読み取れるとされている。 黄梅院は、夫の氏政のみならず、婚家の北条家、父 武田信玄 など多くの家族に愛された女性でした。
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