物語
Old Tale
#0343
板額塚
ソース場所:笛吹市境川町小山
●ソース元 :・ 五味文彦・本郷和人・西田友広編 「現代語訳吾妻鏡」 参考
・ 現地説明板
●画像撮影 : 2016年01月26日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
【概要】 板額御前は平安時代から鎌倉時代への激動の時代に、越後の有力豪族 城氏 娘とし生まれ、父や兄弟たちが次々と討たれていく中、甥の城資盛を盛り立て反乱軍の将として奮戦した。囚われ鎌倉に送られ、どんな刑に処されるか分からない中でも、決して臆することなく堂々とした態度は、幕府の宿将達を驚かせた。その中に、甲斐源氏の浅利義遠(浅利与一)がいた。彼は源頼家に「本気か?!」と笑われながらも、彼女を妻としてもらい受けたいと願い出、それを許され甲斐の国に連れ帰った。そこからは、歴史書に名前がないのが穏やかな生活だった証拠か、笛吹市境川に「板額塚」を残すのみです。
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板額塚由来
境川村小黒坂小字柳原のこの地は古くより板額塚と口伝えされてきたところである。
両側の里道は板額坂と呼ばれている古道である。
この板額塚は浅利与一義成の妻 板(坂)額の塚と言われている。板額女は鎌倉時代初期 越後国鳥坂(とっさか)城主の城小太郎資盛(じょうこたろうすけもり)の姨母(おば)である。城氏は桓武平氏の流れをくみ、武勇の名を天下にとどろかせた平維茂(たいらのこれもち)の子孫である。
時に資盛は鎌倉二代将軍頼家の代、建仁元年(一二〇一)越後鳥坂城(新潟県中条町)に拠って幕府に反旗をひるがえした。幕府は佐々木盛綱を総大将に鳥坂城を攻めた。城将 資盛の姨母 板額はおんなの身でありながら弓を射て百発百中 敵を倒したが、信濃の住人 藤澤四郎清親の矢に倒れ生虜られた。
城氏は敗れ、板額は鎌倉において将軍の前に引き会わされた。有力御家人の居並ぶ中で おじけず堂々としていた。浅利与一は板額を女房にしたいと嘆願した。朝敵を望むとはと問われ、与一は「同心の契約をなして壮力の男子を生み朝廷を護り武家を扶(たす)けたい。」と答え許されて甲斐に連れ帰った。
板額は身籠り安産祈願に藤垡瀬立不動に参る途次、帯石に立止まった故事が伝えられている。 板額の生んだ女子が武田五郎信光の七男、石橋八郎信継(石橋屋形住人)のもとに嫁いだといわれる。この地の名称も板額の浅からぬ因縁によるものと思われる。
ーーーーーーーーーーー平成九年九月 笛吹市教育委員会 (現地説明板より)
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「板額御前」
板額御前(はんがく ごぜん、生没年未詳)は、鎌倉時代初期に活躍した女性の武将。越後国の有力な豪族・城氏の一族。父に城資国、兄弟に城資永、城長茂(長用)らがいる。養和元年、長兄の資永が急死し家督は長茂が継承したが、正治三年二月城長茂が京で蜂起し、長兄 資永の嫡男 城資盛の弟 資家・資正らとともに敗れた。城資盛は越後国鳥坂に城を構え多勢の幕府軍相手に籠城した。この城資盛を守り一緒に戦ったのが叔母の板額御前である。日本史における数少ない女武将の一人で、古くから巴御前(巴御前は軍記物語の「平家物語」と「源平盛衰記」にのみ登場するだけなので、実在であるか否か、武将であったか否かは確定されていない)とともに女傑の代名詞として知られてきた。活躍時期は巴御前のほうが20年ほど早い(年齢は十も違わなかったかもしれませんが)が、江戸時代の劇作家らにとってはほぼ同時期の女傑だったため、作品上「馬上より、美しくたおやかに薙刀を振るう美女戦士 巴御前」と「男勝りで、何なら門扉も打ち破るほどの腕力を持ったガサツな醜女だが、女性ながらも百発百中を誇る超一級の強弓の名手 板額御前」と対比されるような形で知られていた。
ただし「吾妻鏡」(建仁元年六月二十八日)を見ると「坂額は、彼女を見ようと大勢集まった勇敢な武人達にもひるむことなく堂々とした武人っぷり。ただ、顔は中国の陵薗の妾のような美しさ」(陵薗の妾=皇帝の墓守人。皇帝は死してなお美しい女性に世話されるべきと、美女が配せられた)とか、(同 二十九日)坂額を妻としてもらい受けたいと願い出る浅利与一義遠に対し、二代将軍 源頼家は「彼女は見た目は美人だが、気性は武人のように荒々しい。そんな女を他に欲しがる者もいないだろうし、義遠の考えは普通じゃないなぁ」と嘲弄した。などの記述がある。なのに醜女扱いは残念である。坂額御前をイメージするとき『クール・ビューティ』な女性像をイメージしていただけると幸いです。
城氏は有力な平家方の豪族であったが、治承・寿永の乱を経て没落、囚人になったが、頼朝の汚れ役担当でもあった梶原平三景時が源頼朝に助命を願い、奥州征伐で活躍のチャンスを与えられ(『吾妻鏡』文治五年七月十九日・同 七月二十八日)、御家人として取り立ててもらえるまでになった。城一族にとって梶原景時は二人といない恩人であり、最大の庇護者であった。
正治元年(1199年)『梶原景時の変』により、鎌倉一の郎党と呼ばれた梶原平三景時は政争に敗れ失脚、一族は鎌倉を追われたので、京の公家に伝手を求めて上洛しようとするのを「謀反」と決めつけられ打ち取られてしまいました(『吾妻鏡』正治二年一月二十日)。
1201年城氏は源頼家に抗して挙兵(越後平氏 城長茂 蜂起。正治三年一月二十三日 京の朝廷に宣旨を求めに行ったがかなわずゲリラ化する。この政情不安を払しょくするため改元が行われ建仁となったので、この城氏の蜂起を「建仁の乱」と呼ぶ。『吾妻鏡』正治三年二月三日から六月の板額の記載まで、遠国の困りごとのような扱いで再々記載されている)。板額は、反乱軍の将として奮戦した。特に弓の名手として知られたが藤沢清親の放った矢が両脚に当たり捕虜となり、反乱軍は崩壊する(同 建仁元年五月十四日)。
坂額は鎌倉に送られ、将軍頼家の面前に引き据えられるが、全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕させた。自らも弓の名手として知られた甲斐源氏の浅利与一義遠はこの態度、武勇に深く感銘を受け、頼家に乞い願い彼女を妻として貰い受けることを許諾される(『吾妻鏡』建仁元年六月二十八日・二十九日)。
板額は義遠の妻として甲斐国に移り住み、同地において死去したと伝えられている。
由来書や現代の文献では「板額御前」表記が一般的ですが、『吾妻鏡』の中では「坂額」となっているので、吾妻鏡からの抜き書きについては「坂額」表記にしています。文章中に複数の表記があるのはそのためです。
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