物語
Old Tale
#0349
彦田の観音
ソース場所:大月市梁川町彦田 彦田観音(35.607135, 139.038064)
●ソース元 :・ 内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
●画像撮影 : 2015年10月24日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概要(彦田の観音)] 梁川駅の北側の小高い所に「彦田の観音」がある。これは養蚕の神様で、県内で養蚕業が盛んだった頃は遠くからも参拝者が訪れ、特に祭日には津久井や八王子からも参拝者でにぎわった。飾り立てた馬に乗り、馬の藁鞜二足を携えて参拝し、帰りに供えてある藁鞜一足をもらい受け、それを御札のように養蚕室にかけておけば、馬も蚕もその一年災いなく過ごせるというものでした。今は、馬を飼う家も、養蚕を行う家もなくなって祭りも寂しくなってきました。
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天正十年三月十一日というから織田信長の軍勢が甲斐の国を 侵攻し、武田勝頼は現在の大和村田野で自刃し果てた、その日と伝える話である。
騎馬軍団をもって日本中に鳴り響いた武田軍団の中にあって、勝頼の愛馬白龍は一きわ優れた名馬であった。勝頼は、この名馬を死なせることを惜しみ、家臣小幡八郎太に命じて武蔵の領主北条氏へ届けさせようとした。八郎太は白馬白龍を曳いて梁川(大月市)の斧窪まで逃げのびてきた。
空腹と疲労が重なったので民家の庭に馬をつないで餌を与え、八郎太も昼食をとって一休みしていると、突熱白龍が大きな嘶き(いななき)をあげた。その嘶きは千里に響くかと思われた。
噺は勿論、蹄の音さえ忍ばせてここまで落ちのびてきたのであったが、突然の嘶きで、主君勝頼公の命とはいえ、愛馬白龍をつれての逃避行ももはやこれまでと観念し、意を決し涙をのんで白龍の眉目を割り、馬の命を絶って彦田の山へ埋めた。
翌日、斧窪の里にも三月十一日勝頼公が亡くなられたという報が伝わって、白龍のあの異様な嘶きは主君の異変を感知しての豪泣であったと知り、「さすが名馬、霊感が宿っていた」と村人は噂した。
その後、梁川の山に異変が起きるようになった。馬の嘶きが聞こえ、馬の姿は見えないが明らかに馬が荒したと思われる被害があいついだ。また、ある者は「空を駆ける白馬を見た」といい、ある者は「三月十一日死んだはずの勝頼公を乗せた白馬が甲州街道を通るのを見た」といった。
村人は勝頼の無念さを秘めた馬の霊が此の世をさまよっていると判断し、白馬を本尊とする馬頭観音堂を建てて彦田観音と名を付け白龍の霊を慰めた。以来馬の被害はなくなり、かわって不思議なことにカイコの当りが続くようになった。
こうして「彦田の観音に参詣すれば養蚕のご利益あらたかである」とうわさが広がるようになった。特に祭日には、津久井や八王子の方からも飾り立てた馬がやってきて、信徒一千人というにぎわいを見せるようになった。厄地蔵さんに団子を持っていくように、いつの頃からか彦田の観音参りには馬の藁鞜ニ足携えて参拝し、帰りには観音様に備えられた別の藁鞜を一足もらいうけて帰るようになった。また馬のないものは供えられた藁鞜をお札がわりに求めて帰ることが習慣となった。この藁鞜を養蚕室へ掛けておくと馬はその年一年は無事、養蚕は必ず当るというあらたかな霊験に毎年々々馬の健康と養蚕の当りを祈願する人で大にぎわいを見せた。
お堂には尼僧が住み、観音供養を続け、養蚕守護の札を配っていたが、世の中が大きく変って農村に馬がいなくなり養蚕も衰退してきて、つい三十年位前まであったこの行事も白馬の話もいつしか語り草となってしまった。
出典:内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
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