物語
Old Tale
#0372
御所五郎丸の墓
ソース場所:南アルプス市野牛島2076
●ソース元 :・ 南アルプス市HP 市指定文化財 より http://www.city.minami-alps.yamanashi.jp/kurashi/manabu/shiseki-bunkazai/m-shiseki-bunkazai/city-shitei.html
●画像撮影 : 2015年10月25日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
【概要】 建久4年(1193年)、源頼朝の富士の巻狩りの際、曽我兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った。兄弟のうち兄の曾我十郎祐成は祐経の部下に討たれるが、弟の五郎時致は本懐を遂げたことを報告しようと頼朝のもとへ向かった。大変な武術の持ち主で追いすがる敵を次々となぎ倒していったが、とうとう御所五郎丸に取り押さえられてしまった。御所五郎丸は功をあげたにも関わらず、この野牛島の地に流され一生を送ったと伝えられている。 この曽我兄弟による仇討は歌舞伎の演目として大変人気が高く、江戸では正月狂言として、新作の曽我物を上演する習わしとなり、これが明治まで続きました。なので、戦前くらいまでは誰もが知っているお話でした。
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御所五郎丸の墓
野牛島集落の中心に、御所五郎丸の墓がある。安山岩の墓石に「鎌倉御所五郎丸の墓」と陰刻されている。墓所の前には観音堂が建っており、御所五郎丸の肌守りと言い伝えられる観音菩薩座像(実際は地蔵菩薩座像)が祀られている。
御所五郎丸は歌舞伎や能楽の演目『曾我物語』で有名な、曾我兄弟の仇討ち事件に関わった武士である。建久4年(1193年)、源頼朝の富士の巻狩りの折り、曾我兄弟は父親の敵工藤祐経を討ち果たし、18年にも及ぶ本懐を遂げた。兄十郎は駆けつけた祐経の部下に討たれるが、弟五郎はことの次第を報告すべく、頼朝の御前を目指して敵陣の中を突き進んでいった。怪力自慢であったという五郎に向かっていった武士たちはことごとくなぎ倒されていったが、ただひとりその身を取り押さえることができたのが御所五郎丸であった。『曾我物語』には、五郎丸が女装して曾我五郎を油断させたと書かれている。この奇計が武士道に反するとして、五郎丸は功をあげたにもかかわらず、鎌倉を追放され、野牛島の地に流されたと伝えられている。しかし、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』や初期の『曾我物語」には女装の事実は書かれておらず、後世の脚色である可能性が高い。
五郎丸についての記録は、鎌倉時代には他になく、その人物像は不明な点が多い。江戸時代に書かれた『扁額規範』(へんがくきはん)によれば、五郎丸は京都に生まれ、比叡山に住んでいたが、16歳の時に師匠の仇を討って都を離れ、一条忠頼を頼って甲斐国甘利庄(現在の韮崎市)に来た。その後、忠頼が頼朝に討たれたのを機に、頼朝に仕えるようになった。荒馬を乗りこなす剛の者で、75人力であったという。毎年8月末には、地元の人々によって五郎丸の慰霊祭が行われている。
南アルプス市HP 市指定文化財 より
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