物語
Old Tale
#0522
かがめや地蔵
ソース場所:都留市田原1-11-2 法泉寺
●ソース元 :・ 都留市立図書館デジタルライブラリー www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/ 郡内研究
・ 内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
●画像撮影 : 2014年09月04日
●データ公開 : 2016年04月01日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概要] 曹洞宗の名僧祖暁禅師の法力を伝えるお話。祖暁禅師が都留市の法泉寺で住職をしていた時のお話。高僧である祖暁禅師が住職をしてくれることに喜んだ檀家の人達は、僧に見合うくらい立派な地蔵とそれを納める立派な厨子を作った。いざ地蔵を厨子に納めようとすると、三寸ほど地蔵が大きく収まらない。みんなで困っているところへ、遠方より禅師が帰ってきて、話を聞くと地蔵の頭をなでながら「かがめや地蔵、かがめや地蔵」と言った。地蔵は頭をうつむけて少しかがんだ。それで無事に厨子に収まった。人々は禅師の徳の高さや法力あらたかなことを語り伝えた。
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かがめや地蔵
都留市金井から茅が坂の旧道を300メートルほど登ると、昔は大奈良という小さな集落があった。
曹洞宗の名僧祖暁禅師は、大奈良の佐藤家の2男として寛文7年(1667)に生れ、幼名を太郎といった。 7歳のとき、金井の江西院(現在廃寺)の一山徹公について得度して仏門に入り、21歳のとき加賀大乗寺の良高禅師について修業した後、よき教導を求めて諸国を行脚して道を求めた。
元禄5年(1692)得度の師徹公和尚が老齢のため江西院に帰り、元禄7年上谷村の法泉寺の第8世住職となり、宝永3年(1706)師のあとを継いで江西院の住職となった。
その後相模(神奈川)の松石寺の住職として転任し、正徳4年(1714)駿河(静岡)安部郡の領主本多信門に招かれて秀道院の開山となり享保8年(1723)彦根(滋賀)の井伊家7代直惟公に招かれて清涼寺の住職となった。享保11年禅師は秀道院に戻り、同11年65歳で入寂した。
大奈良の太郎から、彦根の清涼寺住職となり、曹洞禅門の名僧として多くの伝説と遺文墨跡が残されている。
宝泉寺(都留市上谷)のかがめや地蔵の伝説に「宝泉寺の境内で石屋さんが困って考え込んでいるので、用事を終えて戻ってきた祖暁禅師がその理由を聞くと、でき上った石地蔵を厨子におさめようとしたが厨子より地蔵の方が3寸(10㎝)ほど高く、おさめることができず思案しているとのことであった。禅師は石地蔵の頭をなでながら、かがめや地蔵、かがめや地蔵というと、地蔵は少し頭をうつむけたので、めでたく厨子におさまった」とのことである。
「甲斐国志』に、「元禄十二己卯年四月二十四日開眼ノ掲二言フ、汝元来大幡山ノ石、我ハ是久遠実成ノ仏、曲窮ヤ地蔵ト、是レヨリ石像少シクカガメリト言ヒ伝フ」とある。
この伝説は、祖暁禅師の徳が高く、法力のあらたかなことを、地元の人々が石地蔵にたくして語り伝えられたものと思われる。
郡内研究 第5号 「祖暁禅師とカゴメの童謡」窪田薫 1994 都留市郷土研究会
甲斐の祖暁禅師(其の一・其の二) 1975都留市教育委員会
都留市歴史史料集(二)「甲斐の祖暁禅師について」窪田薫 1976 内藤恭義
甲斐国志 第4巻 士庶部 1972 雄山閣
出典:都留市立図書館デジタルライブラリー www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/ 郡内研究
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かがめや地蔵
禅宗のお坊さんで「甲斐の小ダルマ」とまで言われた祖曉禅師は、彦根の伊井家や駿河の本多家に抱えられたほどの高僧であったが、郷里(都留市)の河西院や法泉寺で住職をされたことがあった。
名僧を迎えた法泉寺の檀家一同は、相談してお地蔵さんを祀ることを決めた。
さっそく石は、祖暁さんの生地に近い大幡山から切り出され、石匠の手によって刻まれていった。お地蔵さんを納める厨子も大工の手によってつくられた。
高僧の誉れ高い祖暁さんは、法話を乞われたり、布教のために諸国を歩かなければならなかった。久しぶりに寺に帰ってみると、檀家の代表が集まり、石匠、大工を交えて何やら思案げに話し合っているので聞いて見ると、「お地蔵さんが少しばかり大きくて厨子に納まらない」という。しばらく思案げにお地蔵さんのまわりを廻ったり、厨子のまわりを廻って見比べをしていたが、祖暁さんは「なかなか良いできじゃ、よく作って下された。ご苦労様でした。これから先は、私にまかせて下さい」と言って、お地蔵さんも厨子も共に引き取ってしまった。
元禄十二年四月二十四日、お地蔵さんの開眼供養の日を迎えた。金らんまばゆいばかりの法衣をまとった祖暁さんは、荘厳そのもので、人々も圧倒される思いであった。読経が続き、開眼の偈(げ)の段になると、祖暁さんは地蔵を威圧するようにひときわ大きな声で「汝はもともと大幡山の石である。私は仏の身である。かがめや地蔵。かがめや地蔵」と大喝された。あまりの轟音に参列していた人々も身のすくむ思いであったが、こわごわ頭を上げてみると、お地蔵さんまでが頭を少し前へたらしおじぎをしていたので、みんな「さすがは高僧」と驚いた。
が、この驚きが敬意に満ちたさらに大きな驚きとなるにはほんの少々ではあるが時間がかかった。
儀式が終ると祖暁さんは「開眼供養も無事済みましたのでお地蔵さんはお厨子に納まるはずである」と言うのでそれではとみんなして半信半疑厨子へ納めてみると、何と驚いたことに供養の前には絶対に入らなかったお地蔵さんが、すっぽりと納まったのである。大音声の開眼の偈の真意が、頭をたれさせてその分だけ丈を低くさせて厨子に納めることにあったと知り、かつ祖暁さんにはその法力があることを知って、居合せた檀信徒一同、感動のどよめきをあげたのであった。また、この奇跡を知った人々は、祖暁さんをうやまうようになり、禅風が大いに振興したという。
かがめや地蔵と名を得、頭を前にたれているお地蔵さんは、願いごとを聞いて下さる姿に見え、祈願に訪れる人が多く、いまに至っても かがめや地蔵まつり が行われている。
出典:内藤恭義(平成3年)「郡内の民話」 なまよみ出版
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