物語
Old Tale
#1509
平将門と小菅村(小菅村に伝わるお話)
ソース場所:丹波山村小袖 羽黒神社
●ソース元 :・ 山梨県連合婦人会 編集・発行(平成元年)「ふるさとやまなしの民話」
●画像撮影 : 201年月日
●データ公開 : 2018年06月11日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概要] 鎌倉幕府が成立するおよそ250年前、関東の豪族 平将門が朝廷に対し不満を持つ人々に支持され、関東全域を制圧し、「我こそは新たな天皇として立つ」と朝廷に反旗を翻しました。 天皇になれなかった天皇の子孫たちは、各地に派遣され、朝廷運営のための資金を得るため荘園経営などに励みました。しかし、領民の生活や天候、周辺豪族との力比べなどには関係なく、朝廷からは重税を求められ、貴族との付き合いが上手くなければ、貴族の論理で荘園を奪われる事もあり、地方の豪族たちの朝廷に対する不満が高まっていました。 こうして朝廷に反旗を翻した平将門でしたが、(坂東の人々にとっては残念ながら)制圧されてしまいます。 今でも坂東の各地に平将門にまつわる伝説が残っています。
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平将門と小菅村
小菅村にむかしから伝わっているお話です。 ある年のことです。狩人が二人して土室山に鹿射ちに行った時のこと、二人して山の奥へ奥へと進んで行くと突然山の奥から、ものすごいヒズメの音をたてて大きな獣が二人の前に現われ走り去って行きました。 狩人たちはその大きさと速さに射つことはおろか、驚きのあまりその場で気を失ってしまいました。 しばらくの後、二人は気がつき、青ザメた顔でふるえながらさっきのできごとをこわごわと話し合いました。そして獣の走り去ったところに行って見たところ、それがなんとオボンの大きさもあるような馬の足跡です。どうしてこんな山奥に馬がいたのだろう。実際は馬ではなく化け物ではないか・・・ 二人は早々に狩をやめて帰ってしまいました。しかし納得がいかず村人に話していくと、やがてそれは平将門の乗馬とわかったのです。 平将門は、幕府の手の者に京都から追われて、大月の七保町に身をひそめていたのでしたが、追手がせまり馬で逃げました。奥の土室山は険しく馬でも登れないので愛馬を乗り捨てたのです。その馬が次第に野生化し笹や栗、ドングリの実などを食べて異常に大きくなったものとわかりました。 なお、平将門は土室から小菅にのがれ、橋立地区内の今のヤパナを通った時、橋立の向うフッテラ(古寺)で幕府勢が弓で将門を射てその矢が土や岩にささり、それが花のように見えたので地名が矢花(ヤパナ)と呼ばれるようになったそうです。 将門がそこから葛の久保谷で敵と戦ったその場所を一戦場(いっせんば)といい、そして獅子倉山を越して丹波山村に逃げたそうですが、その場所を逃延(しげのふ)といったが、今では「茂延」という字が当てられるようになりました。 将門はその後丹波山村お祭地区と七ツ石山を経て、七ツ石神社の御神体を守り神にいただき、武蔵の国に落ちたのだということです。 (小菅村)
山梨県連合婦人会 編集・発行(平成元年)「ふるさとやまなしの民話」
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七ツ石神社は、宮司・氏子の高齢化などにより山頂直下の社殿への登拝が困難になり、小袖集落内の羽黒神社に分祀する形で社殿が移された。 以来30年以上放置された山頂直下の神社は、石灯籠は残っているものの鳥居、社殿は倒壊して廃墟となってしまった。 そんな時、大学で山岳信仰を研究し、なかでも「狼信仰」について深く研究していた寺崎美紅さんが 地域おこし協力隊員として丹波山村に移住してきた。彼女は、この放置されていた七ツ石神社を整備する事の重要性を観光登山の面でも、文化財保護の面でも感じ、事前準備、リサーチを進めた。 彼女の熱意により、「七ツ石神社再建プロジェクト」が村をあげ開始した。 2017年8月 村指定文化財に登録。(自治体として整備など行うために必要な手続き) 2018年4月 社殿解体。 今後、発掘調査、社の再建などが進行予定だそうです。
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山梨各地に伝わる昔話や伝説、言い伝えを収録しています。昔話等の舞台となった地域や場所、物品が特定できたものは取材によって現在の状態を撮影し、その画像も紹介しています。