1236│棒道

ソース場所:韮崎市穴山ー八ヶ岳西麓
●ソース元 :・ 長坂町教育委員会(平成12年)「長坂のむかし話」 長坂町役場
●画像撮影 : 201年月日
●データ公開 : 2017年10月17日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概要] 小淵沢の観光案内所などでもらえる「八ヶ岳信玄棒道ウォーキングマップ」に沿って歩いてみる。林の中をまっすぐに続く古い道に逢える。山梨県内にも古い街道がいくつも有るが甲州街道、中道往還、若彦路、駿州往還、鎌倉街道、青梅街道等々急峻な地形を縫うようにくねくねと折れ、アップダウンしながら隣国へ繋がっています。しかし、棒道は驚くほどアップダウンも少なく、まっすぐに延びています。これは、戦国時代に北信濃を攻めるため作った軍用道路だったからと云われています。
棒道の話
棒道とは、
__戦国時代の甲斐の武将武田信玄が
__北信濃(長野県長野盆地)を攻めるために
__八ヶ岳の西の麓に
__軍用道路としてつくった
と伝えられている道のことです。
棒のようにまっすぐのびていることから、
こう呼ばれています。
江戸時代の地誌『甲斐国誌』には、「棒道」は上・中・下の3本あった、とあります。それによると、3本とも長坂町内を通っています。
「上の棒道」は、逸見路の穴山(韮崎市)から分かれ、若神子新町(須玉町)、渋沢、大八田、白井沢を経て小荒間に至り、小荒間から八ヶ岳の西麓をほとんどまっすぐに等高線沿いに進み、長野県の立沢(富士見町)に至って大門峠を経、長野盆地への道と接続します。
「中の棒道」は、大八田で上の棒道と分かれ、大井ヶ森を通り、小淵沢を経て葛窪から立沢へ至り、上の棒道と合流します。
「下の棒道」は、逸見路から渋沢、小淵沢を通り、蔦木・田端へ抜けます。
ところで中と下の2本の棒道は、諏訪方面への道として、古くから人々に利用されていたようで、昭和62年の山梨県の調査では、小荒間を通る「上の棒道」が、本来の棒道だとしています。その理由は、江戸時代にかかれた絵図で「ぼう道」と記入しているのは、小荒間を通る道だけだからです。
棒道が、何年に、どのようにしてつくられたのかをくわしく記録した史料は、残念ながらありませんが、長野県に棒道の開設を伝えるといわれている文書がのこっています。それには、天文21年、信玄が、「甲府から諏訪郡への道をつくることを命じ」ており、「川に橋をかけるために、どの山からでも木を切ってよい」とあります。
信玄が諏訪一帯を制圧してその後30年におよぶ信濃攻略を開始したのは、天文11年のこと。北信濃の善光寺平(長野盆地)を舞台とする上杉謙信との「川中島の合戦」は、この文書が出された翌年、天文22年から始まっています。
さて、甲州から諏訪盆地に出るには、大井ヶ森を通るこれまでの道で十分だったのですが、善光寺平のある北信濃に出るとなると、これまでの道では遠まわりで、時聞がかかりすぎます。そこで、もっと時聞がかからない、最短距離の直線的な道はないものかと開削したといわれるのが、大井ケ森よりもっと標高の高い小荒間を通る道だったというわけです。
つまり、信玄が諏訪盆地の平定を終え、次に北信濃を平定するためにつくったあるいは整備したのが棒道だ、という考えが正しければ、「棒道」ができたのはこの文書が出されたころ、といえるかもしれません。 (『棒道の本』)
長坂町教育委員会(平成12年)「長坂のむかし話」 長坂町役場