物語
Old Tale
#1592
柏尾古戦場・近藤勇 最後の戦場
ソース場所:甲州市勝沼町勝沼
●ソース元 :・ 現地説明碑
・ 甲府市hp 「甲府城」 参照
・ 山梨県hp 「甲府城研究室」(埋蔵文化財センター) 参照
・ 信州の街道探訪 その4「甲州街道」(国土交通省 関東地方整備局 長野国道事務所 発行冊子) 参照
・ 「板垣退助君傳記 第四巻」(滄溟・宇田友猪 / 著 原書房) 参照
・ 大善寺hp 「近藤勇 柏尾山の戦い」 参照
●画像撮影 : 年月日
●データ公開 : 2021年08月20日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
【概要】 慶応四年(1868年 明治への改元は旧暦九月八日)三月六日、今の甲州市勝沼町勝沼 柏尾坂付近で幕府軍 甲陽鎮撫隊 と 官軍が戦った。訓練された士気の高い土佐、因幡、高島の藩士達が主なる官軍と、浅草団左衛門配下のいわば戦闘に素人の兵を引き連れた幕府軍では勝負にならなかった。幕府軍には新選組や会津藩士などの士気高い戦士も居たが、ろくな訓練ないまま引き連れられてきた多くの兵たちは、大砲や銃の扱いにも窮し戦闘を放棄して脱走する者が相次ぎ、戦線を維持することもかなわず、短時間のうちに幕府軍の本陣は突き崩され敗れた。甲陽鎮撫隊の残党は山中を隠れながら退却、八王子からは新選組の隊士たちさえも散りじりに逃げる事になった。柏尾坂での陣は地形的に細長くなり、陣の形としては甘いものとなった、これは大善寺に本陣を置こうとしたが、大善寺にある徳川家縁の寺宝を戦火から守らなければ誠が通らぬという理由で諦めたからと伝わっている。
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柏尾の古戦場
明治元年(一八六八)三月六日、近藤勇 率いる かつての新選組、会津藩兵から成る幕府軍 甲陽鎮撫隊 と 因幡、土佐、高遠藩兵からなる官軍がこの地で戦った。
甲府城占拠を目指す幕府軍は先に甲府入城を果たした官軍を迎え撃つため、勝沼宿に二ヵ所の柵門、柏尾の深沢左岸東神願に砲台を設け備えたが、甲州街道、岩崎方面、菱山越の三手に別れ、攻撃を加えた官軍の前に敗れ敢え無く敗走した。
この戦いは、甲州に於ける戊辰戦争唯一の戦いであり、甲州人に江戸幕府の崩壊を伝えた。町内にはこの戦いで戦死した三人の墓が残されており、このほかに両軍が使用した砲弾が三個伝えられている。 (現地説明碑より)
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この戦いについて書かれたものを見ると、官軍の勝因は
① 甲府を制することで圧倒的な優位をもたらすことを良く理解していて、甲府城までの圧倒的な距離の不利(幕府軍 江戸ー甲府、官軍 大垣ー甲府 の距離の差)を、急ぎに急いで幕府軍に先じた事。
② この官軍を率いてきた乾退助(板垣退助)の心理的な作戦。つまり彼の12代前の先祖が武田氏の家臣 板垣信方であり、甲府城に向かう途中 武運長久を祈念し姓を乾から板垣に復し、武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得た事。(甲斐国内の武田家遺臣の子孫で帰農した百姓、浪人、神主らが、板垣ら率いる官軍への協力を志願。また、官軍が甲府を出て江戸に進軍する事になり、武田遺臣が八王子千人同心などとして多く召抱えられた八王子を通過する際も板垣の姓は力を発揮した。)
にあるとされている。
それに対し、幕府軍は、寄せ集めの混成部隊ではあるが、率いてきた近藤勇(当時、公式に大久保大和守剛と名乗っていた。同様に土方歳三も内藤隼人としていたが、以降分かりやすくよく知られている名前で記す)らが、幕府から資金や最新兵器を渡され有頂天になり、大名行列のように豪遊しながら行進し、飲めや騒げの宴会を連日繰り返し、甲府到着が遅くなり、途中で移動の邪魔になった大砲を6門中4門も置き去りにしてきた。甲府は幕府直轄領であるから、甲府城に入りさえすれば何とかなると甘く見ていた。などとされることが多い。
「勝てば官軍負ければ賊軍」・・・・・負けてしまえば、どんな苦労があろうとも、愚かな作戦というようになってしまう。
勝者側の官軍①の理由は、素晴らしい進軍であることに間違いはない。ただ、甲陽鎮撫隊は二月末に命令を受け、5000両の資金と大砲6門、500挺の銃を受領したが、鳥羽伏見の戦いの敗戦から戻ったばかりの新選組にはそれに見合うだけの隊士が居なかった。浅草団左衛門配下を200人ほど従えて、甲府に向け進軍し始めたのが三月一日だった。『板垣退助君傳記 第4巻(明治百年史叢書 第462巻)』(宇田友猪著 原書房 2010)によると、板垣退助の隊は三月一日には上諏訪におり、三月三日に上諏訪を発し甲府に向かったとある。上諏訪ー甲府間、今の道路事情で68.6km、それに対し、江戸城ー甲府城間113km。
現在、東京都心から諏訪に向かうなら、特別な理由がない限り甲府経由の中央自動車道や、国道20号線通称甲州街道を使う。中山道を使うより距離が短いからだ。しかし、江戸時代で云えば、参勤交代、和宮の降嫁道中など多くは中山道を利用した。それは甲州街道のある特徴による。つまり甲州街道は険しい山中が続く道中なのだ。
甲州街道について。
江戸初期に「江戸城陥落の際、甲府まで将軍(徳川家康)の避難路」として想定され造成された。その為、街道沿いには有事に砦になるように多くの寺社が置かれた。参勤交代で利用した藩も信濃高遠藩・高島藩・飯田藩の三藩のみ。大軍で攻め込まれることの無いよう、あえて街道の整備をしなかったなどと聞いたこともあるが、利用する藩も少なく、インフラ整備が不足しており、小仏峠・座頭転がし・笹子峠、などという狭くて曲がりくねった難所、二人横並びに歩けないほど狭く険しい山道が続く。江戸から甲府まで宿場数37宿(月替わりの宿場もあるが)、それに対し甲府から上諏訪までの宿場数は6宿である。山間の険しい道であり、天候によっては通行困難になるため江戸ー甲府間には多くの宿場が設けられていた。
大砲を易々運べるだろうか?戊辰戦争に多く使われたとされる四斤山砲だとすると、全備重量は200kgを越える。砲弾は何発運んだかわからないが、一つ4ポンド(約2kg)。銃は何を支給されたかわからないが、ミニエー銃は約3.9kgある[勝沼氏館跡外郭域で発見されている銃弾がライフルマークの入らない旧式銃の弾なので(現地説明碑より)、ゲベール銃か?いずれにせよ同程度の重量がある。]。慢心から2門しか運ばなかったのではなく、2門運ぶのがやっとだったのではないでしょう。
浅草団左衛門配下の人々。
いわゆる被差別民と言うと奴隷のような力仕事の得意な人たちのように思われることもあるかもしれませんが、彼らの普段の仕事は、斃牛馬の処理、獣皮の加工やまた革製品の製造販売などの皮革関係の仕事、刑吏・捕吏・番太・山番・水番などの下級官僚的な仕事、祭礼などでの「清め」役、芸人、履物・灯心・筬・竹細工などの製造販売といったある種の製造販売業者で専売制を持った職人たちが多いので、腰に刀を下げ、銃を担ぎ、重い砲台を引きずって山を行くようなことが得意な人たちではなかったと思う。
甲陽鎮撫隊を率いた新選組の隊士たちは、調布、日野、八王子と言った甲州街道の山道手前の出身者が多く、実際の道中を知っていた。きっと江戸を出発した途端、この兵力では甲府までたどり着けないと感じ、必死に入隊者達を募りながら、また脱落者を出さないようにの道行だったのではないでしょうか?実際、途中で近藤勇は土方歳三を援軍要請のため、神奈川方面の旗本たちで結成された菜葉隊や江戸に向かわせています。
勝沼の決戦前、両軍の兵力はそれほど差がないようにありますが、実際の戦闘可能な兵力としては、甲陽鎮撫隊は命令を受けた時、すでに圧倒的な兵力不足で負けていたのではないでしょうか。
官軍勝因の②は、乾退助が持っていた運命と、官軍が(新選組とは違い)甲府城内の本当の姿をよく知っていた事がうまく合致しました。
甲府城
天正年間に徳川家康の命で築城が開始した。(豊臣秀吉の命で開始していたという説もある)江戸時代に入ると徳川義直・徳川忠長(家康の九男や孫)徳川綱重(家光の三男)・徳川綱豊(綱重の嫡男・後の第六代将軍 徳川家宣)らが城主を務め、江戸幕府にとって甲府が重要拠点だったことがわかる。だが、江戸幕府が太平の時代を迎え宝永元年(1704年)綱豊が次の将軍として江戸城に入り、その後を第五代将軍 徳川綱吉 に寵愛を受けていた柳沢吉保が城主となる。初めて親藩以外の領地となる。享保9年(1724年)柳沢吉里(吉保の嫡男)が大和郡山に転封になり、甲斐国は幕府領となり甲府勤番が設置された。 長い勤番制の運用中、だんだん甲府城勤務が左遷先、「山流し」的な扱いを受けるようになってきて、江戸幕府将軍の守りの要であったことが忘れ去られるような扱いを受けてきた歴史が作られます。 幕末になり、慶応二年(1866年)勤番制を廃止し城代を設置するも、慶応三年(1867年)末以降、城代は辞任、撤兵、もしくは赴任せず新政府軍に恭順を示した。甲陽鎮撫隊進軍に際し、わずかに、甲陽鎮撫隊に呼応する者もいたが、想像以上に迅速な官軍の入城により声を上げることもなく、処分、処刑されるなどした。
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柏尾での戦いの後、近藤勇らは再集結し下総流山に陣を敷くも、新政府軍に包囲され近藤勇は投降。慶応四年四月二十五日 板橋刑場で処刑された。
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