


物語
Old Tale
#1183
蚕玉大神(北杜市長坂町 全域)
ソース場所:北杜市長坂町 全域
●ソース元 :・ 長坂町教育委員会(平成12年)「長坂のむかし話」 長坂町役場
●画像撮影 : 2015年11月12日 蚕玉大神は北杜市長坂町全域にありますが、夏秋の白山神社にて撮影
●データ公開 : 2017年01月05日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。












[概要] 八ヶ岳山麓では、主に日野春地区の開拓を契機に養蚕が普及した。イネや麦と言った農産物は、その生育地の水利や気候などによってその生育が左右されるが、養蚕は長年の研究により日本の風土に適した蚕蛾が育成された事、餌の桑栽培以外は屋内なので寒冷地でも可能だったこと、非力な女性や老人も労働力として有用で有った事、何より現金収入に繋がっていたので、特に明治から大正時代にかけて養蚕が盛んにおこなわれてきました。その大切な養蚕を守る蚕の神様を祀った石碑がたくさん建てられました。
蚕玉大神 (全域)
神社の境内や村の辻に、「蚕」という字の刻まれた石碑が建っています。これは「こだまさん」と呼ばれ、養蚕が盛んに行われていたころに蚕の豊産を祈って建てられたものです。
長坂町には、約20基の「蚕玉(こだま)大神」「豊蚕(ほうさん)大神」などと刻まれた石碑が見られます。
養蚕は、大昔から日本でおこなわれ、稲や麦とともに農家の大切な収入源でした。特に明治から大正時代にかけて日本の近代化を支えたのが生糸の輸出でした。長坂町でもほとんどの農家で蚕を飼い繭を出荷していました。
そのころの、1月の13日から15日にかけての、小正月には、このあたりの農家では、米の粉をふかして繭のかたちをした繭玉団子をつくりそれを梅やコナシ等の枝に刺して、部屋いっぱいに飾りました。ちょうど団子の花が咲いたようなので「だんごばな」といわれました。繭玉団子は、蚕の神様にたいする供え物で、蚕の豊作を願う信仰のしるしでした。
飾った団子は、道祖神のどんど焼きのときに、蚕の神様に感謝するとともに焼いて食べると虫歯にならないといわれていました。
蚕の祭りは、小正月の時だけではなく、蚕の掃き立てまえや、オヒキの時などに、ご馳走をして神様に供えたり家族で食べました。
蚕のことを「おかいこさん」とか「おしらさん」と「お」をつけて呼んでいましたが、これは蚕が当時の人々の生活にとって非常に大切なものであったからでしょう。
(板山武人)
長坂町教育委員会(平成12年)「長坂のむかし話」 長坂町役場
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