1584│燈籠仏(甲府市善光寺3-36-1 善光寺本堂内)

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ソース場所:甲府市善光寺3-36-1 善光寺本堂内

●ソース元 :・ 「甲斐傳説集」土橋里木 著/山梨民俗の会
       ・ 甲斐善光寺hp
       ・ 「甲斐志料集成3」甲斐志料刊行会 編   
●画像撮影  : 年月日
●データ公開 : 2021年07月12日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

 

【概要】

甲斐善光寺には燈籠仏と呼ばれる秘仏が祀られている。善光寺には金堂や山門、ご本尊、鳴き龍、など見るべき物はたくさんありますが、聞きなれない仏像です。しかし、江戸時代この燈籠仏は大変な霊力があるとされ、甲斐国内だけでなく、京や江戸にも幾度となく出開帳が行われるような有名な仏像だったそうです。

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燈籠仏
甲府市善光寺の燈籠仏というのは、信州善光寺の如来の分身で、一寸八分の尊像である。元和年中 西本坊という念仏行者が、悪夢を見て、伊豆片浜の赤沢茂左衛門という者を尋ねて行った。茂左衛門は海辺の砂の中から、夜な夜な光るものを掘り出し、家に安置しておいたのがこの如来で、西本坊はこれを乞い受け、携えて行った小さな燈籠に入れて持ち帰り、善光寺に奉安したものである。すべての吉凶禍福を伺うのに、この如来を燈籠に入れたまま持ち上げて見て、その軽重によって判断する。願望成就は軽く上がり、願叶わぬ人には重くて上がらぬという。 (西山梨郡誌)

一説には、むかし武田信玄が善光寺の普請をしていた頃、信濃の善光寺から一寸八分の如来様を、普請が仕上がるまでという約束で借りて来た。ところがいつまでたっても返さぬので、隣国から度々使者が催促に来ると、まだ普請が仕上がらぬといって断った。ついに十年も経って、最後の使者が来た時、信玄は金仏をを燈籠の中に隠しておいて、あれは疾うに返した筈だが、念のため寺の中をよく探して見るがよいと言った。使者は寺内を隈なく探したが、ついに分からなくて帰国した。それ以来工事などの長引くことを「善光寺普請の様だ」といい、頑固で人の申し出に応ぜぬことを「燈籠仏」というようになった。 (松のしらべ方言伝説号)

土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会  より
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甲斐善光寺
甲斐善光寺は甲府市善光寺にある浄土宗寺院。
いわゆる戦国時代の天文年間、武田晴信(信玄)は信濃侵攻を本格化させ、北信濃を庇護する越後の長尾景虎(上杉謙信)と衝突し、北信濃において複数回の戦闘「川中島の戦い」を繰り広げた。天文二十四年(1555)七月の戦いでは戦火が信濃善光寺に及んだ。弘治元年閏十月十五日、駿河の今川義元の仲介により一旦和睦が成立し、武田、上杉双方は川中島を撤退する。この時、景虎は信濃善光寺 大御堂本尊の善光寺如来や寺宝を越後に持ち帰り直江津に如来同を建設した。これに対し、晴信は弘治三年善光寺北西の葛城城を落とし、一帯を勢力下におくと、善光寺別当の栗田寛久に命じ、信濃善光寺本尊の阿弥陀如来像や寺宝を甲斐國に運ばせた。善光寺如来は永禄元年(1558)九月甲斐に到着し、甲斐善光寺が創建された。
甲斐善光寺の造営工事は10年以上の長期間に渡る大規模ものだったという。この信玄の創建した善光寺は、「宝暦四年二月七日、門前の農家より出火。山門・本堂・方丈・鐘楼・三重塔・など東頬の房の中で焼け残った建物は何もなかった。或る話によると勝頼没落の時、川尻(川尻秀隆)の軍兵がやってきて、勝頼父子が潜んでいるのではと疑い本堂に火をかけたが、焼け落ちる事はなく、御仏の奇跡と言い伝わっていた。なのに、今回の消失を国中挙げて嘆き惜しんでいる。」「(その本堂は)飛騨の匠の技をもって造られた大伽藍で、先年消失した信州善光寺を再建する時に甲斐善光寺のように造ろうとし、番匠(工事担当技術者)を遣わして堂の造りを見せたが、梁を使わず造るなんて当時の技術力が余りに高く、同じには造れないと空しく帰国した」というような伽藍だったことが「裏見寒話」に記されている。現在の金堂・山門は寛政八年(1796)に再建されたもので、金堂も信玄時の規模には至りませんが、撞木造り 総高27m、総奥行49mという、日本有数の木造建築として、山門と共に国の重要文化財に指定されています。
また、信玄が運ばせた善光寺如来像だが、武田氏が滅亡後、岐阜城城下、清州城城下、三河国など当時の権力者の移り変わりに従い、各地を転々とした。慶長伏見地震により京都東山 方広寺の大仏が倒壊し、豊臣秀吉は再度京都に大仏を建立しようとした。この時も、大仏の代わりとして甲州から借り寄せられ大仏殿に安置されたが、大仏の不思議なお告げがあり、翌年信州に返され、今は信濃善光寺に鎮座している。甲斐善光寺では、前立仏を新たに御本尊と定め現在に至っています。      (甲斐善光寺hpより / 「甲斐志料集成3」甲斐志料刊行会 編 p147 「裏見寒話」巻之二 仏閣 の項より)
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涅槃堂・燈籠仏
黄金仏なり、丈 一寸八分(およそ5.4cm)。銅燈籠の中に置く立像。この彌陀は知恩院御門跡の封印がある。僧侶もみだりに拝することは出来ない。衆人一人で決め難い事がある時、一心に拝し、この燈籠を手で持ち上げ、その軽い・重いで事を占う。実に霊仏である。  (「裏見寒話」より)

この燈籠仏は霊力があるとされ、甲斐国内のみならず、江戸や京都でも出開帳が行われていた。歌舞伎のセリフや川柳にも登場するようになり、知名度も高かった。
明治六年(1873)、山梨県令・藤村紫朗により「山梨郡善光寺燈籠仏を以って、吉凶禍福をトするを禁ず」との通達が出され、燈籠仏占いが衰退していった。

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