物語
Old Tale
#0342
双児塚
ソース場所:笛吹市八代町南747 慧光山 定林寺
●ソース元 :・ 「定林寺縁起」定林寺HP http://www.jorinji.org/engi.html
・ 現地説明板
●画像撮影 : 2015年07月02日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
【概要(双児塚)】 この地で双子を身ごもった平家の落人が産気づいたが、無理のたたった逃避行だったため、母親も子供達も儚い最期を遂げてしまった。母子は手厚く葬られることもないまま霊となりさまよっていた。 日蓮上人がこの地に通りがかり、親子を済度した。墳墓は双児塚呼ばれ、安産守護の場となりました。
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「定林寺縁起」より
鎌倉時代の文永年間、日蓮大聖人は直弟子の日向と日興を従えて甲斐国御巡化の旅に出られた際、この八代の里に行き暮れました。一夜の露をしのぐべく野中の地蔵堂にお泊まりになられたその夜、東方に闇を通して妖一団に鬼火が立ち上がるのを御覧になられます。翌朝、日蓮大聖人が村人にその仔細を尋られると、郷士の早内左衛門は次のような因縁話を語りました。
平安末期の寿永年間、源平富士川の合戦に敗れた平祐成の側室、白菊御前(平重盛の従妹)は、敗軍のため一門を離れて逃げ続け、この里にたどり着きました。しかし、懐妊の身であった御前はそれ以上は進めず、とある塚のほとりで産気づき、一児は死産、一児は胎内に残したまま自身もはかない最期をとげてしまいました。甲斐源氏の地であるこの里の村人達が敵方の側室や嬰児を丁寧に葬はずもなく、その塚のかたすみに埋めてしまってから誰ひとり供養する者もなく年月が過ぎていきました。いつしか塚より鬼火が燃え上がり、村は災害や疫病にあい続け、豊かであった村も年を追ってすたれ、さびれてしまいました。
日蓮大聖人はこの話を聞かれると、いまだに成仏できずにいる母子とその因縁に悩まされているこの里をいたく気の毒に思われ、御弟子二人を従えて塚の上に安産の妙符を供、法華経「如来寿量品」を三十遍読誦されました。
その夜、日蓮大聖人は請われるままに早内家に泊まられますが、夜半、聖人の枕辺に一人の気高き婦人が二人の赤子を抱いて立ち現れます。婦人は法華経の利益と妙符の功徳で無事成仏安産できたお礼を述べられ、未来永劫この地にとどまって女人の守護神になることを日蓮大聖人に誓います。日蓮大聖人はおおいに喜ばれ、婦人に「二子鬼子母神ふたごきしもじん」の尊号を賜たまわることを告げられました。
出典:「定林寺縁起」定林寺HP http://www.jorinji.org/engi.html
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恵光山定林寺 所在地 八代町南七四七番地
、 二子塚
文永十一年(一二七四)日蓮聖人が巡化の折、この地ではかない最後をとげた平家の落人の二子と婦女の妄霊を済度し、墳墓へ二子鬼子母神を祀り、恵光房日林(郷士 早内左衛門)を弟子として給仕を命じた。日林は邸を寺とし恵林山定林寺と号し日夜尊崇給仕をした。墳墓は二子塚として今ものこり、女人済度安産守護の霊場として地域の信仰を集め、毎年十月十日に祭典が行われている。
山門、境内のカヤ、二子塚のサワラは町の文化財に指定されている。 (現地説明板より)
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