物語
Old Tale
#0507
瀬戸の観音
ソース場所:南巨摩郡身延町瀬戸135 方外院
●ソース元 :・ 『龍湖山 方外院ホームページ』 http://hougaiin.com/index.php?FrontPage
●画像撮影 : 2016年03月18日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概 要] 戦国時代、武田信玄が出陣の折り、本栖湖畔を通りかかると、激しい雨と雷に進軍が困難になった。その時、ふと湖畔の彼方に目をやると、ほのかな明かりが見えたように思い、明かりを頼りにそこへ向かった。するとそこには微笑みをたたえた如意輪観音菩薩が安置されていた。 観音菩薩像に戦勝祈願したところ、たちまち雷雨は去り、進軍できた。霊験あらたかな観音菩薩を山中に安置するとは恐れ多いと本栖の地頭に命じ安置した。その後、武田氏の滅亡や、付近の鉱山の衰退などから、観音菩薩を移すことになった。移転先の候補は他にもあったが、瀬戸の住民がお迎えに上がった時だけ観音菩薩は霊験を現したので瀬戸に移すことに決まった。瀬戸の観音様は、優美な微笑みをたたえていて、光を発するかのような美しい観音像です。
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伝承によると、戦国時代、武田信玄公が甲斐国から三河国へ出陣のおり、本栖湖畔の赤坂の地を通ると、雷雲風雨、天地震動して、軍を一歩も前に進めることができなくなってしまった。
途方に暮れていたところ、ふと湖畔の彼方を見ると、幻のような淡い火影が見えた。信玄公主従はこれに力を得てその地にたどり着くと、そこには微笑みをたたえた如意輪観音菩薩が安置されていた。
この不思議な観音菩薩のお姿に接し、信玄公が戦勝を祈願したところ、たちまち雷雨は去り、無事に三河へ向かうことができた。
信玄公はこの仏恩に感謝の意をこめ、仏の供養料として御朱印7石と数通の判物を与えて仏を保護した。また、霊験あらたかな観音菩薩を草深い山中に安置することは恐れ多いと考え、家臣である本栖の地頭・渡辺囚獄に、安穏の地に移すよう命じた。
西暦1582年、武田家は、織田徳川連合軍によって攻められ、滅亡した。戦火は甲斐国中の社寺にも及んだため、渡辺囚獄は、観音菩薩を本栖の長崎に移した。しかし、この地は山道が険しく参詣が困難であったため、再度丸山の地に移した。丸山には鉱山があり、多くの人々が住んでいた中で、観音菩薩も敬われるようになっていった。
丸山の地も、鉱山の廃止とともに衰退した。この事態を憂慮した渡辺囚獄は、信玄公の願いを果たすため、村々へ布告を出し、先着の村に観音菩薩を移すと申し渡した。
これに対し、まず、中の倉村民が到着したが、観音菩薩は示現(仏が霊験を示すこと)しなかった。次いで、瀬戸村民が到着したところ、観音菩薩が示現した。
こうして、慶長2年(1597年)5月18日、観音菩薩は、現在の瀬戸の地に移ることが決まったのである。
出典:『龍湖山 方外院ホームページ』、平成28年9月4日(日)、URL:http://hougaiin.com/index.php?FrontPage
伝説によれば、観音像の台座には「本栖寺」と書いてあり、瀬戸に移したのちに本栖の人たちが本栖へ返すことを要求した際、瀬戸の人たちは台座の字を消そうとして削ると、そこから血が出たと伝えている。
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