1209│首無地蔵(没頭地蔵尊)

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ソース場所:甲州市大和町田野 景徳院境内 没頭地蔵尊

●ソース元 :・ 土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会    
       ・ 現地説明板  
●画像撮影  : 2017年03月11日
●データ公開 : 2017年03月15日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他   : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。

[概要]

首無地蔵
武田勝頼の墳塚の西南の山腹に三体の石仏があり、何れも坐像で首がないから、俗に首なし地蔵という。寺伝に景徳院(勝頼)父子および夫人相模ノ方を埋めた所と伝えている。 (東八代郡誌)

土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
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山梨県指定史跡 武田勝頼の墓
昭和三十三年六月十九日指定
甲州市大和町田野三八九 天童山景徳院
武田勝頼は武田信玄の第四子である。天文十五年(一五四六)、諏訪頼重の娘を母として諏訪に生まれ、諏訪四郎勝頼と名乗る。信玄没後 天正元年(一五七三)に家督を継いだ。
天正三年(一五七五)五月、武田軍は長篠合戦で大敗し、以後 勝頼は領土の拡大より領地の支配といった内政に力を入れるようになる。また、信州・駿府からの敵軍侵攻に備え、天正九年(一五八一)新府築城に着手、九月には落成し、十一月から十二月頃に躑躅ヶ崎の館から新府城に移ったようである。
天正十年(一五八二)二月二十五日、親族衆で富士川沿いの河内領を支配していた穴山信君が織田側に寝返り、三月三日に徳川家康とともに北上、さらに信州の高遠城を落とした織田信忠が南下し、親族をはじめ味方の多くが勝頼の元から離れていった。勝頼は小山田信茂の岩殿城へ向かうべく、住み始めたばかりの新府城に火をつけた。一行が勝つ沼を過ぎたところ小山田信茂も入城を拒否し、勝頼の進退は窮まった。新府を出たときには五~六〇〇人ほどいたとされる従者は、このときには四~五〇人しかいなかったといわれる。
田野の地で一行は、平屋敷に柵を設け陣所とした。三月十一日、滝川一益が情報を聞きつけ、滝川益重・篠岡右衛門に命じて包囲させた。逃れがたいことを悟った勝頼は自刃して果てた。勝頼三十七歳、北条夫人十九歳、嫡男信勝十六歳であった。
甲斐国曹洞宗総本山・中山広厳院の住職・拈橋(ねんきょう)の兄は、謹慎の身にも関わらず武田家に殉じた小宮山内膳友晴といわれている。拈橋は田野に入り、敵味方の死体が累々としているなか、刀の中子に姓名を朱書きしている武田の家臣に戒名をつけていった。勝頼親子の遺骸は、陣を張った高台の中腹に埋葬し、後に地元の人々が首のない三体の地蔵尊を安置した。「没頭地蔵」と呼ばれ、境内の一画に祀られている。
織田信長が没すると、甲斐国は北条氏直と徳川家康が領地を争ったが、家康が甲斐国主に納まった。家康は国内安定化のため武田遺臣の懐柔策をとり、武田遺臣の優遇、兵火に焼かれた恵林寺等の復興を指示するとともに、武田遺臣・尾幡勘兵衛に命じ、勝頼の菩提寺を田野に建立させた。建立にあたり田野郷一円を茶湯料として、一山を寺領として寄進した。当初「田野寺」と称したが、後に勝頼の戒名である「景徳院」となった。天正十六年(一五八八)に伽藍がほぼ完成したというが、本堂・庫裏・御霊屋・山門などが建ち並ぶ、壮大なものであったと伝えられている。第一世には、広厳院住職であった拈橋が入ることとなった。
武田勝頼の墓は、甲将殿の背後に建立されている。中央に勝頼の宝篋印塔、向かって右手に北条夫人の五輪塔、左手に信勝の五輪塔の三基が長方形の基壇に据えられ、その両脇には正方形の基壇上に殉難者供養塔が二基据えられている。勝頼宝篋印塔の塔身側面に「相値二百年遠忌造立 當山十一世要導叟」「維持 安永四乙未歳 三月十一日」と刻まれており、勝頼の命日である安永四年(一七七五)三月十一日に、当時の第十一世住職の要導が二百年遠忌で建立したとある。
景徳院では平成十八年度に県費補助事業として、武田勝頼の墓の保存修理事業を計画し、十二月に工事着手したが、その最中基壇内部から五千点を越える経石が出土した。
そのため甲収支では、平成十九・二十年度に出土した経石の整理と分析を、二十年度には甲将殿周辺の発掘調査を行い、寺伝にはない勝頼没後から二百年遠忌までの経過を辿った。
整理作業の結果、経石は中央基壇から四七一〇点、左右基壇から五四五点、その他として二〇点の、計五二七五点あること、中央基壇の経石は法華経を、左右基壇の経石は金剛般若波羅蜜経・宝篋印陀羅尼経・首楞厳神呪(しゅりょうごんしんじゅ)など、複数の経典を写経していることなどが判った。特筆は、右基壇からは「安永三年」(一七七四)銘の経石が三点出土していることである。
また、文献によると勝頼二百年遠忌は、先述の「安永四年」ではなく、安永八年(一七七九)に執行されたことが明らかで、三月十五日から二十一日までの七日間に及ぶ厳粛なものであった。
発掘調査の成果では、甲将殿の正面・背面側に近くの沢から土砂を運び入れ、大造成の結果 現在のような平坦面が形成されたことが判った。なお、武具や人骨など、古戦場に結びつく直接的な遺物は出土していない。
二百年遠忌により墓が建立されるまで、甲将殿とその中に安置された勝頼・北条夫人・信勝の坐像と、殉難諸士の位牌が「墓」であった。つまり、甲将殿が建つこの一帯が「墓域」であり、聖域として勝頼公の慰霊に供されている。
勝頼没後一二四年を経過した宝永三年(一七〇六)、甲府城主 柳澤吉保の招きに応じて来甲した荻生徂徠が記した紀行文『峡中紀行』に、戦没者の供養の様子が書かれている。

住持の僧余に語る。遺墳の所在を問えば、すなわち云う。(中略)既に七日を過ぎ、屍に血淋漓す。君臣わきまえず、すなわち同じく一壙に葬る。即ち今の廟の建つる処。故をもって別に窀穸(ちゅんせき)の所なし。

「住持の僧が私に語る。遺墳(=墓)の所在を聞いたところ、こう答えた。(中略)すでに七日を過ぎ、死体には血が滴り落ちていた。主君も家臣も入り乱れており、そのため同じく一つの壙(=穴)に葬った。それは今の廟(=甲将殿)が経っているところである。そのため別に手厚く葬っているところはない。」

平成二十二年三月   文化庁・山梨県教育委員会・甲州市・甲州市教育委員会

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