物語
Old Tale
#1103
首級牛蒡(けこみごぼう)
ソース場所:甲府市和田町2595 法泉寺
●ソース元 :・ 法泉寺hpより https://www4.nns.ne.jp/~hosenji/yuisyo.html
・裏見寒話 巻之二 寺院 の項
甲斐志料刊行会 編『甲斐志料集成』3,甲斐志料刊行会,昭和7至10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1240842 (参照 2024-05-24)
●画像撮影 : 2015年11月10日
●データ公開 : 2016年06月24日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概 要] 織田による甲州攻めで、武田勝頼らは、今の天目山麓景徳院の境内の辺りで自刃して果てた。その首級は甲府での首実検の後、京都 六条河原に晒された。その後、武田信玄と縁のあった京都の妙心寺の南化和尚が寺内に手厚く葬った。法泉寺の住職快岳禅師は、妙心寺の南化和尚から勝頼の歯髪を貰い、法泉寺に葬ろうとしたしたが、その時はまだ織田軍による武田の残党狩りが続いていて、甲府に入るのは危険だったので、法泉寺北方に位置する帯那の三上家へ向かった。しかし、快岳禅師の動きを怪しんだ織田勢に跡を追われ、とっさに三上家の縁の下にあった牛蒡の俵の中へ勝頼の歯髪を隠し難を逃れた。 この故事に倣い、三上家では、以後、正月二日に法泉寺を訪れて寺の縁の下に牛蒡の束を投げ入れてから、新年のあいさつをするようになったと云う。
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法泉寺ばなし
この寺に「首級牛蒡」という話があります。これは勝頼公のご首級と法泉寺にまつわる伝え話です。
天正10(1582)年、勝頼公の首級は京都六条河原にさらし首となりました。これを伝え聞いた法泉寺三世の快岳禅師は、むごい処置を悲しみ、直ちに京にのぼり、密かにご首級を奪って鄭重にご供養申し上げようとしましたが、織田軍の警戒が厳しく目的を果たすことができません。
そこで、当時妙心寺におられた南化和尚に相談したところ、和尚の力添えでようやくご首級をもらい受けることができ、妙心寺で鄭重な葬儀を営むことができました。
しかし、快岳禅師は、勝頼公のご首級はその故郷である甲斐国に葬ることが至当であると考え、密かに甲斐に持ち帰って来ました。
ところが、当時法泉寺は織田勢の陣所になっていたので、ご首級を持ち込むことができず、やむを得ず上帯那の三上家を頼っていきました。しかし快岳禅師の様子に不審を抱いた織田家の家来に追われ、あやうくご首級が見つかりそうになったので、禅師は咄嗟に三上家の縁の下にあった牛蒡の俵の中へご首級を隠して難をのがれました。その後、禅師は山奥の大馬籠という昼もなお暗い栗林の中へ仮の庵を建て、これを信向庵と名付け、ご首級をお守りしながら時節の到来を待っていました。
やがて本能寺の変の後、織田勢が引き払ったことを確かめた禅師は、急いでご首級を寺に移し、境内に鄭重に葬ったのです。これが現在「勝頼公首塚」と呼ばれている場所といわれています。
三上家ではこの伝えをもとに、毎年正月二日に法泉寺を訪れて寺の縁の下に牛蒡の束を投げ入れてから新年の挨拶をするようになり、これを「首級牛蒡」と呼ぶようになりました。
・ 法泉寺
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金剛山法泉寺(小松村 済宗)
夢窓国師開山。国内の主だった寺である。(甲府五山の一つ)
昔、この寺の僧が、京都にて勝頼の首を盗む。信長はこれを捕らえて責めた。僧は「これは我が国主の首です。今、見るに忍びず盗みました」と答えた。信長は、その主への恩を忘れない事を賞して白銀を与えた。それですぐに火葬して帰り墓を作ったと云う。
裏見寒話 巻之二 寺院 の項より・・・「甲斐志料集成」3 p153
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