1146│城山の白米城(本重寺-椿城跡)

ソース場所:南アルプス市上野347 本重寺 椿城跡
●ソース元 :・ 現地説明板
・ 土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
●画像撮影 : 2014年09月18日
●データ公開 : 2016年11月18日
●提供データ : テキストデータ、JPEG
●データ利用 : なし
●その他 : デザインソースの利用に際しては許諾が必要になります。
[概要]
◎椿城(上野城)跡 (南アルプス市指定文化財<史跡> 昭和五十六年四月一日指定)
この城は小笠原次郎長清の孫、上野六郎盛長がここ上野の地に築いたもので、上野城といったが付近に椿の多いところから椿城と呼ぶようになった。
その後、武田十世信武の二男信明が観応年間(南北朝時代)、大井庄を領有し武田大井氏として栄えた。その六世大井上野介信達がこの城に拠った。信達は、武田信虎の正室で、晴信(信玄)の生母大井夫人の父親である。また信達は大井宗芸、武田高雲斎と号し、 冷泉為和卿集にあるように和歌を善くし、永正三年に飛鳥井雅康より「八代集秀逸」(山口県真南陽市指定文化財)を授与されており京都に学んだこともうかがえ、文亀、永正、大永年間の武将であり、晩年は晴信の外祖父として重きをなした人である。
なお、本重寺は信達の法名、本習院に由来するといわれている。
境内説明板による
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白米城 中巨摩郡落合村秋山
鎌倉時代、武田太郎信義の弟 加賀美次郎遠光の嫡男、秋山太郎光朝の立て籠もった城址を城山という。東も北も険しい崖で、僅かに南方から、平林村の城の橋に道が通じている。ここへ鎌倉の討手が来て城を遠巻きにした時、城内には水がまったく缺乏したが、わざと敵に見える所で、白米を盥に入れ、馬のスソをあげて、水が豊富にある如く装って見せた。敵方ではこれを怪しんで、大森何がしかの婆という者を呼んでその真相を知り、城の水源を尋ねて義丹の滝の水を断った。それでついに堪え切れず、城は落ち光朝は自害した。
附近に雨鳴山があって、雨が降る前には鳴るといい、この城を雨鳴城ともいうし、また山上に山茶花が咲くので椿ガ城ともいう由である。今も本丸、二三の郭の跡、馬冷し場などの地名が残っている。 (中巨摩郡誌 その他)
土橋里木(昭和28年)「甲斐傳説集」山梨民俗の会
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白米城伝説とは アーカイブ1220「新府の白米城」で詳しく記載したが、この伝説は日本各地を廻る霊能者、いわゆる「歩き巫女」がそれぞれの地方へ自分の霊力を示して入り込むためのつかみに使った為、各地で同様な話がされているのではないかという説がある。県内でも各地に同様な話が残っている。(アーカイブ0518「岩殿山」、アーカイブ1146「城山の白米城」、アーカイブ0325「根古屋の白米城」、アーカイブ1220「新府の白米城」など)